CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
Twitter




Amazon左

















MOBILE
qrcode
ウルトラマン商店街 小田急線祖師ヶ谷大蔵駅前
小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅を起点として3つの商店街がある。

・祖師谷みなみ商店街振興組合 (駅改札左の南口商店街)
・祖師谷商店街振興組合    (駅改札右の北口商店街)
・祖師谷昇進会商店街振興組合 (祖師谷商店街を進んだ先の商店街)

これらをを総称してウルトラマン商店街と呼ぶ。

IMG_5020.jpg

駅前にはウルトラマンの像が立ち、各商店街の入り口には
西通り保健センターの前に「ゾフィー」
北通り塚戸十字路に「ウルトラマン」
南の耕雲寺の近くに「ウルトラマンジャック」(帰ってきたウルトラマン)
が飛んでいる。

そのうちの祖師谷商店街振興組合(駅改札右の北口商店街)の街灯はウルトラセブンのアイスラッガーを模しているようだ。

IMG_5014.jpg

フラッグはカネゴン(ウルトラQ)のシルエットになっており、ほかのキャラクターも登場している。

古くから開通した私鉄駅前の、狭い狭い商店街にはバスも走る。これは人払いが必要だろう。

IMG_5015.jpg

なぜこの3商店街をウルトラマン商店街と呼ぶようになったか。
ウルトラマンを生んだ、円谷プロダクションの本社が砧7丁目に、また円谷英二氏の自宅が祖師谷3丁目(ウルトラマン商店街内)にあったことで、いわゆる誕生の地として、ウルトラマン商店街と呼ぶことにしたそうだ。
近くには東宝スタジオやTMC(東京メディアセンター)もあり、いまだに映像制作が行われている街でもある。

IMG_5014.jpg

ただ、祖師ヶ谷大蔵と言えば団地の街のイメージがある。
Googleアースで見るとこのとおり、北部に団地が広がる。
小学校の担任の比木和博先生宅があり、2度ほどお邪魔したことがあった。



ウルトラQ、怪奇大作戦などの円谷作品にはこの近所で撮影したものが多数あり、もう50年も経ってしまった、懐かしの風景が見られて、それはそれで楽しみだ。

  
| 日記・つぶやき | 21:13 | comments(0) | - |


伊能忠敬 没後200年 日本地図を実測で作った男
今年は伊能忠敬没後200年とのこと。
江戸時代に正確な日本地図を作った伊能忠敬(いのう・ただたか)は1745年に生まれ1818年に亡くなった。

千葉県香取市(旧佐原市)出身で商家の伊能家に養子に入り、伊能家を発展させた。
50歳で家督を息子に譲り、それまでやりたかった暦学を高橋至時(よしとき)に学んだ。このとき至時は31歳と、忠敬よりもはるかに若かった。だが、忠敬は終生至時を敬った。不幸にも至時は先に死んで、忠敬の偉業を見届けられなかったし、忠敬も日本全図の完成前に死んだ。

忠敬は商売の成功で蓄えた潤沢な資金をもとに、子午線1度の距離を測りたいという夢に向けて、日本地図の作成にとりかかった。
彼が作った日本地図は衛星写真と比べてもほとんどたがわず、明治期まで実際に使われた。

当時の50歳は今の60歳70歳にもなる年齢であり、1日に40km近くを毎日歩いて測量を続け、正確な日本地図を作ったその情熱は、ときおりサラリーマンの定年後の過ごし方を見つめる手本になっている。

CSの時代劇専門チャンネルでは忠敬が主人公の映画「子午線の夢(加藤剛主演)」と

IMG_4952.jpg
IMG_4953.jpg

ドラマ「四千万歩の男(橋爪功主演)」を放送したので観た。

IMG_4958.jpg
IMG_4957.jpg

どちらも、測量シーンや地図を作図するシーンばかりではドラマにならないので、事件があったり女が絡んだりしている。
ちなみにこれらの作品は2001年に製作されたもので、没後200年を記念しての蔵出し作品だ。

いっぽう、雑誌「一個人」は「没後200年伊能忠敬と日本地図を巡る旅。」を特集している。

IMG_4960.jpg

密度の濃い内容で、佐原の伊能忠敬記念館のみならず、各地に散らばる伊能関係の博物館から資料を集めてまとめている。

伊能忠敬記念館

忠敬の測量は1回で終わるわけがなかったので、何回もの測量旅の推移や、測量の具体的な方法、現代の測量方法なども併せて紹介している。
ちなみに私は大学時代に「測量学」を履修したし、測量会社でバイトをしていたので多少心得がある。家にも父が使っていた測量器具があり、息子が小4くらいになったら夏休みの自由研究に平板測量でも一緒にやるかと思っていてそのままになった。

IMG_4961.jpg

もう一つは彼の人間としての魅力で、篤志家としての活動なども紹介している。
伊能忠敬は偉人として奉られているが、明治以降の国や主君に忠誠を誓わせる教育のために「話を盛って」伝えられているところもあると述べられており、それは野口英世も同じだな。

IMG_4962.jpg

一個人では古地図を持って萩や金沢などの古い街を旅する楽しみ方も紹介していて、読みでがあった。さすがだ。


  
| 日記・つぶやき | 13:59 | comments(0) | - |


新橋のディナー:シーアン新橋店 西安料理 XI'AN 
共に机を並べて働いていた旧知と久々にお食事と情報交換。
場所はシーアン新橋店で西安料理の人気店だ。

IMG_4980.jpg

新橋駅周辺はびっくりするほどの人込みで、立ち飲みの店は道路までサラリーマンがあふれかえっていた。まるでバブル期みたいな人出だ。

暑いのでともかくビールで乾杯。

IMG_4983.jpg

つまみは酢味の麺と茄子の揚げ物。

IMG_4985.jpg

酢豚は酢のむせ返るほどのにおいだが、食べるとそんなことはない。薄切りの豚肉が特徴で、見た目は鶏皮みたいだった。

IMG_4986.jpg

小龍包はアツアツで、つまんだら汁がこぼれてしまった。

IMG_4989.jpg

店は満席になり、次々と入ってくる客を断るほどの状態。
豆苗。青臭いが味付けが確かなのでおいしい。

IMG_4990.jpg

おこげの餡かけ。あんはしょっぱくなくて、まろやかな味わいだ。

IMG_4991.jpg

まだまだ頼みます。豚の角煮。八角の香りが中華らしい。

IMG_4992.jpg

そして満を持して刀削麺を頼んだ。麺生地を刀(ヘラ)で削って湯に落として茹でる麺料理で、これができる職人はそうそういないらしい。

IMG-1883.jpg

これを担々麺でいただく。

IMG_5001.jpg

当然ながら麺の太さや形は不ぞろいで、歯ごたえもそれぞれ違うけれども、そこがいいところだ。

IMG_5003.jpg

最後に、たぶんサービスだと思うけれども杏仁豆腐が出た。甘すぎず、プリプリ過ぎず、おいしい杏仁豆腐だ。

IMG_5004.jpg

トリップアドバイザー人気店のステッカーが貼ってあったけれど、マスターによるとほかの店にこの店での写真が使われている投稿が多いそうだ。

IMG_5005.jpg

そういう間違いって、SNSにはありがちだな。情報を発信する/仕入れるのはいいけれど、内容は自己責任で判断しなければいけない。

そういうわけで、今後ともよろしくお願いします。

| グルメ | 23:43 | comments(0) | - |


東京ディズニーランド JCBラウンジに入る
東京ディズニーランド/シーのアトラクションの多くはスポンサーがついており、ラウンジや優先搭乗など、スポンサー企業の接待施設が秘密裏にある場合がある。

JCBは園内で使える唯一のクレジットカードで、ランドではスター・ツアーズを提供しているが、ここにJCBラウンジがある。

DSC_7785.jpg

JCBのブラックカード ザ・クラスの会員向けにメンバーズ・セレクションという特典があり、牛肉やらワインやらがもらえる特典の中に東京ディズニーリゾートへの入場券やラウンジチケットがもらえるコースがあって、これに申し込んで行ってきた。
2017年度はランドかシーへのペア入場券とお買物券1万円分、そしてラウンジ入場券がセットになっており、有効期限がまだ残っていたので利用したのだ。2018年度は改悪されたので、別の機会に書くかもしれない。

さて、予約をして時間になったらスター・ツアーズに行く。
すると、秘密の入口があり、インターホンでおねいさんを呼び出す。おねいさんが入口まで迎えに来てくれて、秘密のドアから中に入る。

中での写真撮影はOKだが、SNSなどへの投稿はNGなのでここからは写真は撮ったけれども一切お見せできない。

エレベーターで3階へ。そしてラウンジへと案内される。
ラウンジはさほど広くなく、テーブルが数卓とゆったりとした椅子、あたかもちょっとした企業の打ち合わせスペースのような感じだ。決して豪華とは言えず、シンプルな感じだ。
ほかに、小さなお子様が遊ぶ囲いがあって、反対側の壁に大型モニターがある。モニターではスター・ツアーズの案内があり、スター・ウォーズのキャラのぬいぐるみと共に写真を撮ってもらうことができる。

ソフトドリンクは飲み放題。
アイスコーヒー
アイスティーストレート(加糖)
生茶
オレンジジュース
アップルジュース
ホットコーヒー
紅茶
が選べる。まぁ、アルコールはないよな。

注文すると、ミッキーの柄のコップで、おねいさんが持ってきてくれる。

ラウンジは予約が必要なので混んでいる印象だったが、ほかに一組、お子様2人連れの夫婦がいただけ。見た目、ザ・クラスの会員ではなさそうな雰囲気であり、おそらくJCBの取引先銀行の行員一家ではなかったか。
ほかのアトラクションのラウンジも、スポンサー企業の取引先(たとえば食品会社だったら食品卸売業の営業や大手スーパーのバイヤーなど)の接待用に使っているというから、JCBだってそうだろう。

スター・ツアーズに乗るなら滞在は20分、乗らないなら30分までラウンジにいられる。乗らないことはないだろうが、老人連れや身長が足りないお子様連れならば乗らない選択肢もあるだろう。

もちろん乗る。
時間になったらおねいさんが呼びに来てくれたので、もう一方のお子様連れとエレベーターで2階に降りると、そこはファストパスよりもファストの、スター・ツアーズの秘密の乗り場だった。たしかに、ラウンジが時々揺れたので、すぐ下の階でスタースピーダーが動いていたのだ。

今度は、スター・ツアーズのおねいさんに案内され、いきなり搭乗口へ。すぐにスタースピーダー1000に乗り込んで、あとはいつもと同じように宇宙の旅を楽しんだ。

これで満足したかと言えば、ん〜ん、どうだろうな。JCBを毎年多額に使ってザ・クラスに入って年会費54000円を払って3万円近い特典なのでよいと言えばよいが、これだけかというとこれだけであり、どうだろう。

年間パスポートを持っていても入れない施設であるには違いないから、そういう子を誘うにはいいかもしれない。

  
| 日記・つぶやき | 20:53 | comments(0) | - |


新潟少女殺害事件 死後轢断と下山事件
新潟市で小2の少女が絞殺されたのちにJR越後線の線路上に放置され、電車に轢かれた痛ましい事件。
警察は近所に住む20代の男を逮捕した。動機などは今後解明されていくだろうが、女児の冥福を祈りたい。
それにしても、1年以上前から不審者情報があったのに、特になにも手立てをしなかったようだがどういうことか。最悪の結果を招いてしまったではないか。

ところで、女児が死んでから列車に轢かれた、つまり死後轢断と聞いて、真っ先に下山事件が脳裏に浮かんだ。

まだ占領下の昭和24年(1949年)7月6日、初代国鉄総裁の下山定則氏が国鉄常磐線北千住〜綾瀬間で轢死体で発見された事件だ。

IMG_4932.jpg
↑NHKドラマより

その前日、7月5日、大田区の自宅を公用車のビュイックでいつもどおり出勤した下山総裁だったが、その後国鉄本社に現れず、夕方のラジオニュースで行方不明を聞いた運転手が届け出て事件が明るみに出た。
運転手は出勤前に三越で総裁と別れ、車に戻るのを待っていた。夕方までひたすら待っていたのである。

IMG_4936.jpg
↑NHKドラマでは小林桂樹が下山を演じた。下山は48歳で死んだ。

その朝、下山はまっすぐに国鉄に向かわず、行先をあちこち変えて運転手に指示し、最後に三越で別れたきりになった。国鉄本社では秘書がいつもどおり出迎えで待っていたが、いつまでたっても公用車が来ないので、大騒ぎになっていた。

下山はGHQ側から大量の人員削減を命じられていた。いわゆるドッジ・ラインである。
しかし国鉄一家として過ごしてきた下山はそれはつらいことだった。そのためか下山は睡眠薬を服用していた。

IMG_4935.jpg
↑ドラマでの事件現場。あくまでロケ地。

だから大勢は下山が自殺したとみられていた。出勤前にあちこちに車を行かせた常軌を逸した行動もそれをうなづかせた。
だが、東大医学部の司法解剖で下山の遺体は出血が少なく生活反応もないので、死後に轢断されたと判断された。それはつまり他殺されて現場に運ばれ、列車に轢断されたということである。
下山の遺体は大きく5つの部位にバラバラになっており、私は腕だけが線路上に転がっている写真を見たことがある。折からの雨で現場検証は困難を極め、遺品の回収も満足にできず、たとえば愛用のパイプは結局見つからなかった。それは殺害現場が別にあるのを示唆している。

いっぽうで、慶大医学部は列車の轢断遺体は生活反応が現れないケースも多々あるとし、新聞社も自殺派と他殺派に分かれる大論争となってしまった。

●自殺説の根拠の例
下山は米軍から国鉄の人員整理を命じられており苦悩していた。
睡眠薬を多用していた。
車を脈絡なくあちこちに行かせた。
下山らしき人物を現場付近で見かけた人が大勢いる。
夫人が「自殺したんじゃないかしら」とつぶやいた。
現場は大柄な下山の遺体を運ぶには数人がかりでも足場が悪すぎて困難であり、自殺なら本人が歩いて行ける。

●他殺説の根拠の例
遺体に生活反応がない(死体が轢かれた)。
鉄道を愛していた下山が鉄道を穢すような鉄道自殺はしない(知人たちの話)。
血がほとんど流れていなかった(別の場所で殺された)。
轢断した列車の一本前が進駐軍専用列車でその列車から遺体を落とした。
現場近くの小屋に大量の出血の跡があった(かつて大けがをした人がいたのがわかった)。
遺体の服から植物油や染料が見つかった(そういう工場で殺されたとの説)。
線路上にルミノール反応(血液反応)が出た(遺体を運んだ。⇔当時の列車は垂れ流しで、女性の経血がいくらでも落ちていた)。


その後、三鷹事件、松川事件の列車事故(事件)が相次ぎ、下山事件の捜査も米軍筋の動きがあって困難になり国鉄三大ミステリー事件と呼ばれ迷宮入りになってしまった。

下山事件は戦後間もない占領下で起きた事件で、真相は闇の中である。
松本清張は「小説・下山事件」で米軍の謀殺と推理しているし、取材にあたっていた朝日新聞記者の矢田喜美雄は「謀殺下山事件」としてやはり謀殺(他殺)を訴えている。

実際に捜査をした警視庁の名物刑事平塚八兵衛は「自殺に決まっている」と謀殺説を切り捨てている。

さて、なんでもそうだが、現代の医学や捜査技術を使えば、下山事件はキチンと解明できたのではないか、ということだ。今回、死後轢断とすぐに判断されたのも、医学のなせるワザだろう。
犯人は少女が鉄道自殺したと見せかけたかったのかもしれない。

なお、今でも下山事件に関心を持つ人は少なくないと見えて、下山事件資料館は非常に詳しい。
マンガ原作者の長崎尚志は「ビリーバット」と「闇の伴走者〜編集長の条件」に下山事件を登場させている。

IMG_4938.jpg

ちなみに現場はすでに高架になっている。移築されたが事件の慰霊碑があるらしく、一度行ってみたい。

  
| ニュース | 22:48 | comments(0) | - |


鉛筆削り器を買う 手動
ときどき鉛筆を使う。
絵を描くのでなく、メモを書くのに使う。コピーを失敗した紙の裏に書く。

昔は電動鉛筆削り器を使っていたけど、大きくて邪魔になるので仕舞ってしまった。
その後はカッターナイフで削っていたけれども、やはり削りにくい。削りカスや芯の粉も出るし、手動の鉛筆削り器を買ってきた。

IMG_4899.jpg

近所の文具店で324円だったので思った以上に安かった。製図用のしっかりしたものを買うつもりでいたが、子供用のプラスティックの躯体のものでもよく削れるようだ。

IMG_4900.jpg

この鉛筆削り器は株式会社ソニックという、聞いたこともない大阪の会社製だった。
ラチェット機能といって、逆回しにしたら刃が空回りして、正回しにしたときに鉛筆が削られる。つまりくるくる同一方向に回さないで、左右相互にひねるだけで削れていく。

IMG_4901.jpg

やってみたらよく削れて、そんなにグリグリしないでもすぐに鉛筆の先端がピンピンになった。

IMG_4902.jpg

削りカスは透明なケースに落ちるので、あちこちに飛散しないしカスが満杯になる前に捨てられる。
削り終えるタイミングを考えないと、鉛筆が半分削れてカンナクズみたいな状態でカスが鉛筆に残ってしまった。コツがいるのかもしれない。

IMG_4903.jpg

よくできていて、鉛筆を入れる穴には自動的に蓋がされる。だから転がしても穴から削りカスが出てくる心配はない。

IMG_4904.jpg

これで書き方の勉強でもしようか。

  
| 日記・つぶやき | 20:36 | comments(0) | - |


東京ディズニーランド開業 1983年のこと
昨日5月10日は開業35周年の東京ディズニーランドに行ってきたわけだが、その35年前の開業時のことを書いてみよう。

まず、昭和でいうと30年代、西暦でいうと60年代のころ、子供雑誌ではアメリカのディズニーランドの特集がときどきされていたし、ダンボ白雪姫などのディズニー映画が上映されていたので、ディズニー作品については一通り知っていた。講談社からディズニーアニメを絵本にした、子供向けの厚紙の本も出ていたので、何冊か持っていた。取っておけばよかったと今になって思う。

ダンボはまだ近所に映画館があった時代に母と観に行った。火事で、ダンボが大きな耳を使って滑空するシーンがあり、それが怖くて「帰ろ、帰ろ」と言って母を困らせ、途中で退席したらしい。

テレビではその名も「ディズニーランド」という番組が日本テレビで放送されていた。アメリカで放送されているものの吹き替えで、毎週、「「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」のディズニーランドの4つの国にちなんだ番組が放送されており、ビーバーがダムを作ったりする作品はいまだに記憶にある。CSでよいから再放送をしてほしいものだが、今から考えるとナショナルジオグラフィックやアニマルプラネットみたいな作品だった。

そのディズニーランドはまさに魔法の国であり、幼い私がアメリカがどこだかもはっきりと認識していないのに、ディズニーランドに行きたいと思うようになっていた。
そして子供雑誌に「日本にもディズニーランドができるかもしれない」と書かれており、日本に来たならぜひ行こうと思っていた。それは不確定な話だったが、「ディズニーランドの経済学(高成田亨)」には、その夢を追いかけていた男の話などが書かれている。

アメリカのディズニーランドに行ったのは1978年のことだ。クイズタイムショックで5週勝ち抜きで優勝し100万円を獲得した私は、うち50万円は旅行を購入しなければならないので、高校時代の友人と二人分を出してアメリカ西海岸の旅に行ってきたのだった。
暗闇を疾走するジェットコースターのスペースマウンテンには大感動して、続けて2回乗ったほどだ。


↑アメリカのマークトウェイン号

そして1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園した。とてもうれしくてすぐにも行こうと思ったが、たぶん6月ごろになったと思う。

クイズのポン友、森田敬和と、

1983-03-08.jpg
↑今は亡きスタージェット

ウルトラクイズのハワイで同室だった、今は亡き小室周也さんという、珍な組み合わせで行ってきたのだ。

1983-03-27.jpg
↑日本のマークトウェイン号

このころは、チケットが冊子になっていて、アトラクションごとにAチケット、Bチケット、C,Dと、Eチケットまであった。Eチケットが一番エキサイティングなアトラクションのためのもので、スペースマウンテンなどがそれだった。アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライドが「気分はEチケットよ」と言ったのはプチ流行語にもなった。
今ではアトラクションに乗り放題だ。


↑紙袋で来た敬和は宅八郎かい。

それにしても色気がないな。
いや、私はちゃんと美女を連れていった。彼女にしたいなぁという段階の関係だった。
奇妙な組み合わせの4人は初めての東京ディズニーランドであれこれアトラクションを楽しんだ。



その後、彼女とどうなったって?
ディズニーランドでデートをしたら、別れる
という都市伝説があるらしいが、それがウソであることを断言しておく。

その後も何回か行ったし、結婚して子供ができてからも当然連れて行った。
1989年にはアメリカフロリダ州のディズニーワールドに行き、その広さやMGMスタジオのアトラクションの面白さにうなった。

2001年に東京ディズニーシーが開業してもちろん行ったし、それなりに忙しかったから年間パスポートを買うほどではないけれども、それなりに行っていたはずだ。

この10年は毎年ランドとシーを交互に行っている。

2016年には再びカリフォルニアのディズニーランドに、2017年には香港ディズニーランドにも行ってきた。

なんだかんだで、好きなのである。

  
| 日記・つぶやき | 20:17 | comments(0) | - |


| 1/876PAGES | >>