CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
Amazon左








マウスコンピューター/G-Tune






MOBILE
qrcode
田沼武能写真展「東京わが残像1948-1964」と砧公園の桜
車にガソリンを入れるついでに「あ、そうだ」と気づいて砧公園まで走らせた。"世田谷のセントラルパーク"と私が称している都営の公園だ。
満開の、というかまだつぼみもあったから九分咲きのを見てきた。

D8C_6166.jpg

桜の紹介の前に"世田谷のメトロポリタン美術館"と私が称している世田谷美術館で「田沼武能写真展 東京わが残像1948-1964」が開催されていたので鑑賞してきた。

D8C_6220.jpg

田沼武能(たぬま・たけのり)氏は昭和4年(1929)に、東京下町で生まれ、今でもご存命で活躍している写真家だ。木村伊兵衛氏に師事して戦後まもないころからスナップ写真で庶民の生活を撮り始めた。
当時はフィルムもカメラも貴重品で、田沼氏は倹約に倹約を重ねてライカを買った。師匠の木村伊兵衛氏はライカ使いの名手と言われ、いくつもの名作スナップを撮っている。

そもそも、プロカメラマンといえどもまったくの他人の生活を撮影して、なにが面白かったのだろう。家族写真も写真師を呼んで撮影する時代だった。

D8C_6222.jpg

戦後間もない1948年から東京オリンピックが開催された1964年までの膨大なスナップ写真が、今となっては歴史の証人以上の説得力をもってあの時代を教えてくれる。
みな若く、飢えて、向上心が強かったあのころが、一枚一枚から土臭い時代の臭いとともによみがえる。

世田谷美術館の特別展示として、田沼氏が撮影した黒沢明や遠藤周作などの世田谷区ゆかりの著名人の写真も展示されていた。

で、館内は撮影禁止だから、砧公園を散策する。

D8C_6169.jpg

春休みなので、お子様連れや未就学児童を連れたママたちが思い思いに散策して写真を撮っている。
砧公園は大きな桜の木が何本もあるので、子どもたちが小さいころからときおり連れてきては遊んでいた。

D8C_6172.jpg

枝が地面すれすれに横に伸びている木もある。

D8C_6185.jpg

そして花びらを見ると、まだつぼみの状態の木も多い。

D8C_6203.jpg

今年は温かくなったと思ったらすごく寒く戻ったりで、桜も咲き時散り時がわからないのだろう。週末までは十分に花見ができる。

D8C_6204.jpg

桜の花が地面すれすれまで咲いている大きな木の前で何か話している。

D8C_6208.jpg

どうやら外国人が写真を撮りたいので木の前でねっころがっているじじいにどいてくれと言ったようだ。日本語と英語が聞こえる。

D8C_6211.jpg

ところがじじいはグダグダ言ってどかない。
たしかに遠くから見ていてもじゃまなのが寝ているなと思っていた。花が地面まで咲いている桜は珍しいから、外国人でなくても撮影したい気持ちはわかる。
いっぽうで、花の下で寝転びたい気持ちもわかるから、写真を撮る1、2分だけどいてやるとか、大勢の人がいる場所で寝転がるとか、譲ればいいのにじじいも譲らない。
これが美女ならねっころがったままでいいのだが、じじいは絵にならない。

不寛容な時代である。

  
| 写真 | 18:07 | comments(0) | - |


ニコンF3/F601 フィルム一眼レフカメラに電池を入れる
昨日、フィルムカメラの日付機能についてネタにしたついでに、フィルムカメラの一眼レフ、ニコンF3ニコンF601を久しぶりに押入れから取り出して、電池を入れてみた。もう電池はすでにヘタっていたので、新しい電池を買って、入れて動かしてみた。
見事に動作した。

ニコンF3は父の遺品である。名機として有名で20年以上も生産されていた。2014年10月にオーバーホールをして、そのときニコンサービスセンターから「もう次は部品がなくてオーバーホールもできません」と言われている。

ニコンF3は絞り優先の自動露出になっており、その制御のためLR44電池を2個使っている。本体の底面から電池を入れる。かなり長い間電池は持ち、普通の撮影で1年は大丈夫だ。
背面は日付が写しこめるデータパックに交換してある。

IMG_9569.jpg

データパックもLR44電池を2個使う。カメラ本体と同じく、ネジはコインで開くようになっている。ところがデータパックのネジは何十回まわしても外れず、結局、わずかに出来た隙間にマイナスドライバーを差し込んだ。すると、ポロリと電池のふたが外れた。ネジはふたに付いたままになっていた。

IMG_9571.jpg

電池を交換したら、液晶が反応した。最初は82になっている。1982年のことだ。もしかして19(2019年)はないかもしれないと思ったが、ちゃんとあった。

IMG_9576.jpg

フィルムは装てんしないで、巻上げレバーをまわして、ピントを手動で合わせてシャッターを切る。絞りはF8やF5.6にすると、それにあわせてシャッタースピードが変わり、露出が合う。

しかしピント合わせは面倒だし、老眼のためよく見えないし、フィルム巻上げも面倒だし、フィルムも高いし現像代やプリント代もかかるので、やはりこのカメラを使うことはないかもしれない。

IMG_9578.jpg

次いで、ニコンF601だ。子どもたちが小さいころからデジカメに移行するまで使った。こちらはオートフォーカス、絞り優先もシャッター優先も可能で、しかもフィルム巻き上げも自動だ。

IMG_9580.jpg

電池はCR-P2電池を使う。かなり大きなものだ。これも普通の撮影で電池は1年くらい持つ。

IMG_9579.jpg

こちらも背面は日付が写しこめるデータパックに変えているが、なんとまだ液晶が動作しており、つまりデータパックの電池が持っており、ちゃんと日付が表示されている。

IMG_9566.jpg

ピントは自動だし、シャッターは切れたし、まだまだ使えるのだが、フィルム巻上げ音がものすごく大きく感じた。これは劇場のような場所では使えない。鉄道車内でもかなり響くのではないか。こんなに音がするとは当時は思っていなかった。コレしかなかったからだろう。

カメラのデータパックのおかげで、子どもたちが小さいころの写真に日付が入っている。旅行の写真やクイズ仲間との宴会も日付が入っている。



しかしデジタルカメラは日付のプリントへの映しこみのあり/なしが選べるし、位置情報や顔認識、画像の加工も簡単で、何百枚撮影しても原則無料だ。
やはりいまどきフィルムカメラを使う必然性はないのではないか。

フィルムのほうがきれいとか、凝った写真が撮れるとか、人それぞれの価値観はあるだろうが、私はそれらを感じないのだ。
フィルムカメラを使う理由<価格コム>

| 写真 | 19:03 | comments(0) | - |


フィルムカメラの日付プリント機能
昔の写真をスキャンしている。そうすると写真が(あるいは文書であっても)ものすごく扱いやすくなる。
自分で撮影したものは基本的にネガから、人からいただいた写真はネガは手許にないのでプリントをスキャンしている。
80年代から日付が入ったプリントがあるようになって、写真の整理にたいへん役に立つ。やはり「いつ」「どこで」「だれと」撮影したのかわかるとよい。デジカメはそれらすべてがわかるのですごいと思う(日付時間、位置情報と顔認識)。「なにをしているか」「なぜなのか」は、写真を見ればたいてい推察できる。

日付のプリントは何種類かあるのに気づいた。
まずは1987年7月3日の写真。クイズ仲間と鬼怒川に行ったときのもので、写真は落合義和君からもらった。

1992-12-006-5.jpg

日付部分を拡大すると、きっちりと印字されたような書体だ。

1992-12-006-5-1.jpg

落合君のカメラなのでなんともいえないが、かつて父が使っていた、日付機能の付いている最初に発売されたフジカオート7デートは手動で日付を合わせていた。文字盤があって、それがフィルムに焼き付けて印字されるのだろう。
三つのボタンがあって、年/月/日を設定した。

fahu8tr8.jpg

しかし日付をそのつど合わせるのは無理。必ず忘れてとんでもない日付が印字されることになった。

続いて、出るべくして出た、デジタルで自動的に日付が更新されて印字できるカメラ。

1992-12-029-6.jpg

今は亡き鎌田有希子と銚子電鉄外川駅前でじゃれあっている写真だが、電卓のような数字が印字されている。1994年4月15日だ。

1992-12-029-6-2.jpg

このタイプはいちいち日付を合わせないでも数分しか違わない。ところが、デジカメ時代になってマレーシアで吉田宏明さんに撮影してもらった写真はものすごく時間がずれていて、時差にしてもおかしいと思ったら、20分ずれていた。吉田さんが時間合わせをしていないからだった。

そしてハワイで撮影した貴重な鉄道写真。ネガをスキャンした写真に日付は印字されていないが、

1997-06A-24.jpg

たまたまプリントをスキャンした写真もあって、こちらには黒いデジタル数字で印字されている。1997年5月26日。

1992-12-026.jpg

これはAPSカメラ キヤノンIXYで撮影して、プリントのときに日付も印字してもらったのだ。
どうでもいいハワイ出張で駐在員と遊んだ。

1992-12-026-1.jpg

APSアドバンスドフォトシステムといって、フィルムやカメラのみならず現像やプリントを含めた写真のシステムを変えるものだった。

IMG_9559.jpg

左が通常の35mmフィルム、右がAPSフィルム。小型でフィルムはカメラに自動装てん、今のデジカメのExif情報のような領域があり、日付、時間、コメントなどを記録できた。APSに対応しているフィルムスキャン業者にスキャニングを依頼したが、日付はスキャンできなかったのだ。
今、APSフィルムをスキャンやプリントできる業者はあるだろうか。現像済みフィルムもカートリッジに入って納品されるので、どんな写真が写っているか確認できない。早い段階で全部をスキャンしてよかったと思う。

APSはほどなく登場したデジタルカメラに駆逐された。

今のデジカメ写真をプリントするとき、日付のあり/なしを選べるようになっている。スマホアプリには昔のフィルムカメラのようなレトロな写真を撮れるものがあって、日付をあらかじめ入れて撮るモードもある。Exif情報は写真を加工すると消えてしまうから、デジカメ写真の大元データは大事に残しておかなければならない。
| 写真 | 18:20 | comments(0) | - |


1963年 父の伊勢志摩旅行 この建物は何?
父の古い写真から旅行先の推理をする第三弾。
1963年撮影らしいが、色あせたカラーフィルムがある。

二見が浦の夫婦岩の前に父が立っている。

1963-07-002.jpg

いつもは撮影役なのだが、この伊勢志摩旅行は珍しく父が多く写っており、同僚と変わりばんこに撮影しているようだ。職場旅行のような大勢で写っている写真はなく、どうやら4人の旅行なので出張のようである。

1963年という確約はないけれども、昨日、那須への職場旅行を紹介したから、服装からその年の夏のようである。

そして伊勢神宮の内宮の前に立つ写真。
さらにミキモト真珠島の御木本幸吉翁の像の前で。この施設は行ったことがない。
真珠とは無縁だ。

1963-07-008.jpg

まぁ、どこでもだれでも撮影するような観光旅行の記念写真である。しかもヘタクソな写真だ。ニコンS2の50mm標準レンズで撮影していると思うが。

海女さんが海にもぐって真珠貝を採る実演。それにしては海が汚い。

1963-07-010.jpg

大王崎灯台。ここは学生時代に自転車で走った。
写真はカビが生えているのか、かなり汚れていた。フォトショップで補正しても私の技術はここまでです。

1963-07-021.jpg

ところで、気になった写真が2葉ある。写真を数えるのに「(よう)」という数詞を使うことなど、もはやあまりないと思うが、2枚でもなくて2葉。2ファイルと言ったほうが正しいと思うが。

ひとつは旅館の前のおかみさんとの記念写真。

1963-07-023.JPG

4人の旅行で一人がカメラマン役だ。
この旅館はどこだろう。

旅館の看板も、目だった特長も写っていない。背景の木造の建物からすると、もはや現存しないだろう。おかみさんも現存しないと思う。現地の古老に聞いて、おかみさんや旅館の名前がわかるかどうか…。
これは探すのをあきらめた。ご存知の方がいれば教えてください。

続いて、当時としては珍しかったと思う、鉄筋コンクリートの建物。伊勢志摩に建っているのだからおそらく旅館ではないか。

1963-07-016.JPG

こちらは全体が写っているから建物を特定したい。そこで画像検索や、伊勢志摩のこれはという旅館の写真をかたっぱしから探して見てみた。

志摩観光ホテル ザ・ホテルクラシック

shima-4.jpg

これではないか。
現在は増築されたのか横に広がっているが、ペントハウスの屋根の形状や窓の形がそっくりだ。

別の位置の写真のアップ。

shima-3.jpg

よく似ている。
けれどWikipediaによれば「1969年(昭和44年)7月開業、2016年(平成28年)4月改装」とある。東海道新幹線が開業した1964年以降に出来たようだが、父の写真はまだ開業前の様子なのかもしれない。
そして、ここには泊まっていないだろう。今でも恐ろしく高くて、華麗なる一族でないと泊まれない。

その後、父たちは名古屋駅に戻ってきた。駅前広場のようす。

1963-07-024.jpg

銛を持った青年像がある。現在は名城公園に移築されており、ここには富士山型の飛翔というモニュメントが建っている。だがリニア工事で撤去される見込みらしい。
ちなみに現在のこの場所は高層ビルだらけである。

最後に名古屋城

1963-07-027.jpg

戦災で焼けて戦後復興された建物だ。元の木造で作り直すハナシもあるようだが、あまりいじらないほうがいい。ほかにすることがあるはずだ。

気になるのは、父たちが泊まった旅館と志摩観光ホテルらしき建物だ。
現地で聞き込みをすればわかるものだろうか。

***追記***
コメント欄で教えていただいたが、この建物は志摩観光ホテルの西館で、取り壊された由。しかし今の建物はこのデザインがモチーフになっているのがわかる。ありがとうございました。

  

| 写真 | 18:12 | comments(0) | - |


1963年 父の職場旅行 那須で泊まった旅館は
だいたい手元にある写真はデジタル化した。そのため、いつでも写真を見ることが出来る。ネガは劣化で丸まってしまい、もう廃棄するしかないが2013年にデジタル化していたので、よかった。今ならスキャナーにもかからない。もし50年くらい前の写真が大量に残っている人なら、今スキャンをするべきだ。業者にお金を払ってもその価値は十分にある。そしてビデオテープもハードディスクにダビングをするべきだ。

さて、私がまだ小学生のころ、父は建築設計事務所に勤めていた。その職場旅行(社員旅行)の写真が残っている。前後の様子からおそらく1963年だと思うが、職場旅行の次のフィルムのコマは妹の幼稚園入園式の写真(1963年4月)なので、3月に職場旅行をするとも思えず、1962年の秋からフィルムを入れっぱなしなら、昨日紹介した1962年の会津旅行とかぶることになる。
だから撮影年は本当に1963年だか、不安だ。1979年に整理したネガフィルムの袋も、62?と書いてあった。このとき父は存命だったが、おそらく行った事は覚えていても、いつだったか忘れていると思う。

1963-04-004.jpg

バスの前で同僚たちとの写真。父はもっぱらカメラマンなので自分は写っていない。今の私と同じような状況だ。カメラはニコンS2のはずだ。ピントも露出もすべて手動だ。1963年のカラーフィルムはISO感度は64程度だったのではないか。曇り空である。

さて、この撮影場所はどこだろう。
これは一発でわかった。バスの行き先表示が
弁天=大丸=八幡
とあり、この地名で検索したら栃木県那須温泉だった。

1963-04-005.jpg

逆に言うと路線バスで観光しているのか。たまたま来ていた路線バスの前で写真を撮ったとは考えにくい。

Googleマップで見たら、かなり那須岳に近い山のほうにある温泉だ。鉄道や高速道路からかなり離れている。今でも行きにくいと思う。

masu-1.jpg

赤丸が後述する那須高原ホテルビューパレスの位置。

nasu-2.jpg

天気が悪かったせいもあるだろうけれど、このときの職場旅行の写真は5枚しか残っていない。
バスの写真の前に、傘をさしている同僚たちとの写真がある。おそらく旅館に泊まってその前で撮影したのだ。

1963-04-002.jpg

どの旅館だろう。
私としては気になった。
手がかりは赤白の、盗まれないようにハデにしてある旅館の傘だ。

フォトショップで写真を左右逆転させて旅館の名前が読めるようにする。

1963-04-001.jpg

石●荘

と読める。石黒荘ではないだろう。もしかして石雲荘かな。

那須 石雲荘

で検索したらヒットした。素晴らしきインターネットの世界。
ネットの情報を総合すると、
小松屋石雲荘
と言ったらしい。
小松屋旅館別館が後に石雲荘になり、現在は那須ビューホテル、そして建て替えられて那須高原ホテルビューパレスになっている由。残念ながら現在は石雲荘は存在しない。

この石雲荘時代の写真は「那須温泉昔語り館」に展示されているようで、

nasu-1.jpg

とても立派な建物だった。今では石垣しか残っておらず、地元の子どもたちの花火大会の会場になっているみたいだ。

那須温泉で民宿しながら猫の里親奮闘中ブログ
むかし石雲荘と言う宿がありました。
(筆者の)小学校の時は建物も少し残っていましたが、今はキレイに撤去され城跡のように石垣が残っております。相当立派だったようで、斜面を利用して石垣が三段にわかれています。
石雲荘跡地は、花火広場や盆踊り、石垣を利用したナイアガラ仕掛け花火などで利用させてもらってます。

1980年代には解体されたようだ。

ところで、那須ビューホテルなら、浅草ビューホテルを始めとして、日本ビューホテル株式会社の経営ではないか?
ネットサーフィンで創業者にたどり着いた。

日本ビューホテル
創業者・箭内源典(やない・げんてん)が、栃木県那須郡那須町において合資会社小松屋石雲荘により旅館業を経営していたことが後のホテル業界での事業展開の契機となっている。
そして那須ビューホテルは1960年に建てられたので、父が泊まった時は石雲荘と並行して経営していたことになる。

父が泊まった石雲荘のオーナーの箭内氏について芋づる式にたどり着いたのは、「ホテルの社会史(富田昭次著)」という本である。
Googleブックスで一部が読める。

ホテルの社会史
著者: 富田昭次

3 空港ホテルと下町ホテル
「景色が良ければ人は必ず来る」という信念

1966年7月4日、新東京国際空港が千葉県成田市三里塚に建設されることが閣議で決定された。
空港の建設工事が進むにつれて空港周辺をホテル立地としていち早く注目した人物がいた。那須と伊良湖でビューホテルを経営していた箭内源典(やない・げんてん)である。「父が新東京国際空港にいち早く注目したのは、国際的な感覚を持っていたからだと思います。姉をアメリカのコーネル大学に留学させ、私をヨーロッパに行かせたのもその表れですが、空港の計画が出始めた2、3年後には調査を開始していました。それから、その前後だったと思いますが、アメリカへの視察旅行に出かけた際、空港ホテルが印象に残っていました。郊外に立地していることもあって、アーバンリゾートのような性格を兼ね備えていたホテルに面白みを感じていたんですね。」こう語るのは源典の息子・祥周(よしちか)である。
1915年(大正4年)に生まれた源典は41年(昭和16年)の父・源太郎の死後、父が創業した那須湯本温泉の湯治場旅館小松屋を受け継いだが、終戦間際の大火で、その旅館を失った。
源典は再建に際して思い切った手を打った。日本建築の大家・吉田五十八に設計を依頼しようと考えたのである。と言って吉田に面識があるわけでない。勝手に押しかけ、拝み倒そうとしたのである。源典は何度となく門前払いを受けた。それでもあきらめなかった。吉田はとうとう根負けし、源典の依頼を引き受けることになる。
吉田が初めて設計したと言われる旅館石雲荘はこうして1949年(昭和24年)に開業した。吉田の作品と言うことが人気を呼んだ。
再建の第一弾に成功した源典は次の手を打ち始める。那須高原に着目し、高原の土地を手に入れていったのである。湯本温泉の同業者は源典のこの行動をいぶかった。
彼はなぜこんな行動に出たのか。
人は美しい風景を愛する。だが石雲荘は昔ながらの狭い湯本温泉に位置していた。美しい風景とは無縁だった。源典には景色が良ければ人は必ず来ると言う信念があった。そこで高原にホテルを建てようとしたのである。その成果は1960年(昭和35年)に那須ビューホテルの開業と言う形で結実した。


箭内源典氏は父親から譲り受けた湯治場旅館小松屋を大火で失ったが、数年後に再建するときに、日本建築界の大御所、吉田五十八(よしだ・いそや)を拝み倒して設計を依頼する、熱意と先見の明のある人だ。実際、石雲荘は人気で、それは先の白黒写真でよくわかる。
子どもたちを留学させたり、各地にビューホテルを建てたり、すごい人だった。

たった5枚の色あせた写真からいろいろなことがわかる。那須に行ったことがあるが、再度行く機会があれば、石雲荘あとの石垣やを見たり、その進化形である那須湯本温泉 ホテルビューパレスに泊まってみたいものだ。

  
| 写真 | 17:33 | comments(0) | - |


1962年 父の職場旅行 福島県玉子湯・浄土平・会津若松
2013年に手元のネガフィルム・リバーサルフィルム(スライド)はデジタル化したのだが、元のネガフィルムもイナバの物置に保管しており、気になって取り出してみるとさらに劣化が進んでいた。

60年前のネガはまるまっていたり、

IMG_9503.jpg

しっとりと濡れていたり、

IMG_9504.jpg

イナバの物置なら高温多湿で、ネガフィルムを保管する場所ではないが、ほかに置く場所もない。

しかしこれらはスキャンしてありハードディスクに分散保管してあるので、見ることができる。そこで、1962年の父の職場旅行(社員旅行)の様子を再現してみよう。当時、日常的に観光旅行することなどまずありえず、おじさんたちは年に一度の職場旅行が楽しみで、主婦は年に一度の実家への帰省くらいしか旅行はなかったといっても過言ではない。

私は小田急沿線に住んでいるものの箱根すら泊まりに行ったことがなく、小学校5年生の伊豆下田の臨海学校で物心付いてから初めて宿泊し、ホームシックで泣いた。

当時、父は設計事務所に勤めていた。カメラは叔父と共用のニコンS2を使っていた。ネガフィルムの最初は旅館での宴会シーンだ。社長夫妻を真ん中にして社員一同が並んでいる。

1962-1015-002.jpg

次のカットに「玉子湯」とある。コレで場所が特定できた。福島県高湯温泉の旅館玉子湯に泊まったのだ。

1962-1015-005.jpg

今は脇にレトロな屋根の湯小屋が建っているようだ。当時からあったのだろうか。



花札をやっている写真に続いて、峡谷に架かる橋の写真。
これは浄土平の不動沢橋だ。この近辺で深い谷底の橋はこれくらいしかない。

1962-1015-006.jpg

ところがネットで調べると面白いことがわかった。橋は現在の橋ではないのだ。
磐梯吾妻スカイラインが1959年(昭和34年)に開通する際に架けられたが、40年後、橋の架け替えが行われた。

グーグルアースで見ると、橋の新旧がわかる。今は亡き旧橋のふもとには展望台があったようで、父はそこから撮影したのだ。



そして吾妻小富士だろう。瓦礫のすり鉢が写っている。

1962-1015-010.jpg

山を背景に記念写真。

1962-1015-012.jpg

2012年にバイクで磐梯吾妻スカイラインをツーリングしたときは雨でガスっていて何も見えなかった。だから私は吾妻小富士を見ていない。今は噴火レベルが高くて磐梯吾妻スカイラインは通行止めなので、この景色の見ようがない。観光写真はこんなカンジです。



石の塔を父が登ろうとしている。アホである。

1962-1015-013.jpg

この石の塔は浄土平のビジターセンターかなんかにあると思えるが、ネット検索をしたが見つからなかった。もうないのかもしれない。

続いて湖の写真。小島が見えるから桧原湖だと思う。

1962-1015-017.jpg

一堂で湖をバックに記念写真。

1962-11-037.jpg

ほかのカットにバスガイドさんが写っていたから、おそらく福島駅まで国鉄の急行青葉で行き(上野発9:35 福島着14:09 復刻日本交通公社の時刻表1961年9月号による)、福島駅から手配していた観光バスで高湯温泉まで行って玉子湯に泊まり、翌日、会津若松までバスで出たのだろう。
推定ルートはこちら。

会津-1.jpg

現代は3時間程度なので、当時は未舗装路も多かっただろうから、一泊社員旅行にちょうどよい距離だと思う。

その後、飯盛山の白虎隊墓地での写真。このおじさんは同僚だ。生死不明というか氏名不明。

1962-11-038.jpg

最初はどこだかわからなかったが、墓石の名前を検索して白虎隊とわかった。
会津若松市には何度も行っているが飯盛山には行っておらず、不勉強を恥じるばかりだ。

そして石垣だけの写真。

1962-11-040.jpg

これも最初はなんだかわからなかったが、ふと、会津若松城(鶴ヶ城)の石垣ではないかと推定した。
そのとおり、会津若松城は戊辰戦争でボコボコになり、明治7年(1875年)に石垣だけを残して取り壊された。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、父の旅行は再建直前の貴重な時期だったのだ。



この庭園は御薬園だろう。ここも行っていない。

1962-11-039.jpg

会津若松駅前で解散になったようで、国鉄磐越西線の車窓から磐梯山を眺めている。写っている家はわらぶき屋根である。なんで国鉄かというと、ほかの写真に信号機が写っていたのだ。

1962-11-043.jpg

浄土平は草津白根山同様、行きたいけど行けないところなのでないものねだりで行ってみたい。
会津若松市は何度も訪れているが、飯盛山や会津藩校日新館に行ってみたい。

古い写真を見て、時空を超えた脳内トリップをしているだけの日々である。
| 写真 | 18:41 | comments(0) | - |


CP+ カメラと写真映像のワールドプレミアショー に行く
パシフィコ横浜で開催されている「CP+ カメラと写真映像のワールドプレミアショー」に行ってきた。

DSC_9822.jpg

CP+は毎年行っている。でも横浜に行くのもほぼ1年ぶりであった。

DSC_9815.jpg

奥の入り口すぐのリコーブースがすごい人だかりだったが、ちょうど鉄道写真家の中井精也氏の講演が行われていた。リコーの全天球360度カメラTHETA(シータ)を使ったもので、遊びの域を出ないが、さすが中井先生で鉄道の楽しみがしっかりと伝わった。
会場に初音ミクのコスプレをしたおじさんが来ていて、一緒に写っていたが、イベントが終わって帰るおじさんの歩き方は"おじさん"で、歩き方も初音ミクでいて欲しかった。

DSC_9833.jpg

このときの写真は中井精也の一日一鉄に掲載されています。私も右端に写っているけれど、カメラを構えているので本人にしかわからない。

しかし会場を眺めると、リコーをはじめほとんど使ったことがあるメーカーだ。
SONYはカメラはサイバーショットを使っていたし、横360度が写るブロギーというヘンなカメラもまだ持っている。バイクにつけて遊んでいた。

DSC_9850.jpg

ビデオカメラはいまだにソニーハンディカムだ。
プロ用機材が展示してあり、金があれば欲しいけどあって何を撮影する?

DSC_9844.jpg

現実的に欲しいのは高級コンパクトカメラのRX100VI(DSC-RX100M6)だな。今使っているIXY640が壊れたら買い換えたいが、12万円するんですぅ。

DSC_9851.jpg

そしてニコン。今日は首からニコンD5300をぶら下げていった。まさにCP+に行く体制で行ったのだ。

DSC_9853.jpg

ミラーレス一眼のZ7のレンズをはずしてみたら、いきなり撮像子だったので「すげ〜、欲しい」と思った。レンズ込みで45万円はするんですぅ。

DSC_9858.jpg

いずれミラーレスが全盛の時代になるのだろう。Zシリーズにはマウントアダプタを介して今の一眼レフ用レンズが使えるが、Zシリーズのレンズはフランジバックの都合なのか、一眼レフには使えずアダプタもない。レンズの共用が出来ないのがオールドファンには厳しいところだが、かつてキヤノンは一眼レフであってもレンズを一新してしまったことがあるので、それも考えようによっては進化の過程だ。

パナソニックもルミックスを使っていました。

DSC_9860.jpg

そしてキヤノンは今持ち歩いているコンパクトデジカメがIXY640だ。

DSC_9862.jpg

フジフイルムはFinePix4700zを使っていた。
古い一眼レフのような使い勝手やデザインのカメラを続々と発売しており、最新のX-T30が金が余っていたら欲しい。

DSC_9879.jpg

シグマはニコン用超広角レンズの10-20mmを持っている。ニコン純正は高くて買えなかったのだ。今は純正でも比較的安いレンズが出ている。

DSC_9886.jpg

そのほか、パソコンモニターのEIZOの4Kが欲しい。しかし私のパソコンラックは上にプリンタがあるのでラックにはまらない。

DSC_9861.jpg

今一番欲しいのはドローンだ。やはりDJIのを買うのが確実だろう。だが飛ばす場所がない。

DSC_9869.jpg

ADOBEはフォトショップでモデルのめがねに写ってしまったカメラマンの消し方を教えていた。ちまちまスポイトで周りの色を拾ってブラシで塗っていくようだ。

DSC_9881.jpg

日本カメラ博物館のコーナーでは、父が使っていたポラロイドSX70が展示してあり懐かしかった。ポラロイド写真は撮影してすぐに見られる写真が撮れる、チェキみたいなカメラだ(チェキがあとから発売されたのだが)。
一級建築士だった父は建築申請の現場写真を撮るのに使っていた。1、2枚撮れば済むのに、当時のフィルム24枚撮りを使うのがばかばかしかったので、ポラロイドで撮影していたのだ。

DSC_9890.jpg

私も借りて宴会などで撮影してその場で相手にあげたことがある。だがあまり使わないし20世紀末からデジカメが登場していたので、父が死んでヤフオクで売ってしまった親不孝ものだ。

そして今は作れないだろうが、ミッキーマウスの顔に似ているカメラ。その名もミック・ア・マチック。

DSC_9893.jpg

それにしても、私が仕事にしている旅行博とはブースの規模が違う。そもそもブースという概念ではない。観光展はこんなブースだ。

DSC_9895.jpg

製造業と代理業の収益の違いなのだろうか。モーターショーもすごい規模だし、旅行ってワクワクする割にはチンケだな。

会場の外にはキンコーズがビジネスセンターを用意していた。名刺やチラシがなくなって急遽印刷しなければならないことが多いのだ。

DSC_9897.jpg

わかってるな〜と思った。

それにしても各社の出展イベントに写真家の先生の講演や解説は欠かせない。大勢のカメラマンがいる中で、自分の腕と名前だけで食べていくのは相当にたいへんなことだとわかる。不勉強ながら、各社を回ってお名前をご存知の先生はほとんどいなかった。
ましてや土門拳や木村伊兵衛など、死してなお賞に名前が付くのはごくわずかだ。ほんとうにすごいと思う。

  
| 写真 | 22:04 | comments(0) | - |


| 1/21PAGES | >>