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気まぐれ列車だ僕の旅 九州・南西諸島渡り鳥 種村直樹
日本列島外周気まぐれ列車」はレイルウェイ・ライター種村直樹氏のライフトラベルで、日本列島の外周を日本橋から逆時計回りに、公共交通機関の鉄道やバスを乗り継いで一周するという壮大な旅だった。1980年に開始し、2009年に完結した。

今回読んだ「気まぐれ列車だ僕の旅 九州・南西諸島渡り鳥(実業之日本社)」は、20世紀末に鹿児島県から種子島、屋久島や吐噶喇列島などの南西諸島の離島をめぐり、沖縄県の日本最西端与那国島まで行って再び九州本土に戻り、下関までの行程を書き綴った書籍である。

気まぐれ列車だ僕の旅 九州・南西諸島渡り鳥

通常は、他の旅行と含めた"気まぐれ列車シリーズ"として単行本化されるが、版元の事情などで3年半の歳月が過ぎたので、外周だけをまとめた書籍として2000年3月に発行された。
種村氏はこの本の刊行まもない2000年11月に(最初の)脳梗塞を患ったので、以後は再び間隔があき、最初に連載していた「旅と鉄道」誌の休刊と復刊を交えつつ、紀行文としては静岡県あたりで連載が途絶えた。最後のゴール部分は雑誌連載もなく、執筆されてもいない。もちろん単行本になっていない。

私は1996年ごろまでは「旅と鉄道」の「汽車旅相談室」のイラストを受け持っており献本いただいていたので、この本に書かれた前半部分は「旅鉄」で読んでいたのだろうが、後半は「旅鉄」がもらえず読んでいないはずだ。

最近、種村本を読み返しており、まとまった外周本を読んで外周気まぐれ列車とは何だったのか、思い返してみた。

一言でいうなら「個人の趣味」であったと思う。
それが延々と本になり、応分の収入につながったのだから、すごい。同行者は素人だから自腹だったのだ。
それにしては、特に本書の範囲は九州・沖縄の離島で、時間も金も体力も必要なエリアで、本の厚みも種村本の1、2位を争うのではないか。

この本に収録されている旅程は、船でないと行けない離島が多く、これでもかこれでもかと、有人離島をきめ細かく回っている。時化などで船が出ないときは本土を先に回ったり、逆にあとから"落穂ひろい"と称して当初行けなかった離島をわざわざ巡りに行くこともあり、必ずしも外周ルートに従っての旅ではなかった。しかも鉄道のない離島だから地名のなじみも薄く、いったいどこをどう巡っているのか、わかりにくかった。同じような小さな島が多くて有名観光地も少なく、本人からすれば違いがあるのだろうが、特色もわかりにくかった。

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種村氏の60歳前後の旅であり、初老とは言え極めて精力的にバスや揺れる船で取りつかれたように島々をめぐる。よくその体力と情熱があって続くものだと感心した。もちろん、これ以外にも乗り継ぎ旅や雑誌依頼の取材もしていたのだから、そのパワーには恐れ入る。

年3〜4回の平日主体のペースで外周旅行をしたが、長期間に亘ったから、同行する取り巻きも出入りが多く、スター性のある取り巻きも少なく感情移入がしづらかった。
実は私は外周の旅にただの一度も参加していない。外周の旅の企画そのものはかなり前から聞いていたが、実施されるころはそれなりの仕事をしていたし、ほどなく家庭を持ったので、同行する機会を逸したのもある。そして外周の旅が"人気"を得たころは、入れ替わり立ち代わりの取り巻きの一員になるのがなんとなくイヤで、また、ゴチャゴチャした記述も読みあぐねるところがあり、種村氏が時に同行者に激怒することもあったようで、外周の旅から離れていた。日本橋のゴールにも行かなかった。

ただ、今となっては種村氏のライフトラベルであったのだから、最後の行程は同行者による代筆で、電子出版でよいので全容を書籍化してもらいたいと思う。

それにしてもこの本の時代背景である20世紀末は公共の宿も多数存在し、島の小さな集落を結ぶ路線バスもそれなりにあったようだが、今はすっかり寂しくなっている。後半ではケータイも登場するけれども、今ではインターネットでバスの時刻表も用意に入手できるし、GPSロガーがあれば種村氏の外周移動軌跡も取得できて、それなりに喜んだであろう。

私も鹿児島県三島村(薩南諸島)や十島村(吐噶喇列島)に行ってみたくなったが、ケータイ国盗り合戦があるにしても、全島を回る元気はない。しかし十島村のガイドブック「トカラ列島秘境さんぽ(松島むう)」を買ってきた。本を読んで夢を馳せるのがいいところではないか。

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「九州・南西諸島渡り鳥」はまだ外周旅行の途中であり、ゴールしたとしても結論めいたことはないのだが、この本に登場する呑み助とマドンナのその後が気になった。

  
| 読書 | 17:47 | comments(0) | - |


国鉄監修交通公社の時刻表 1964年10月号 本物
東京1964オリンピック開催、東海道新幹線開業した昭和39年10月の「国鉄監修 交通公社の時刻表」が令和元年に完全復刻!と銘打って『時刻表 完全復刻版 1964年10月号』がJTBパブリッシングから販売されている。1500円。
聞けば広告が空欄になっているそうだ。旅館の広告を見るのが楽しいのに。

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ホリプロの鉄道通お二人が帯でお誘いしている。

しかし本物はコレだ。
おまえ、このところ古本ばかり紹介しているな、どうしたんだよ。

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定価150円なので復刻版は10倍の値段だが妥当だろう。
東京オリンピックの開会式は10月10日(昔の固定していた体育の日)、それに先駆け10月1日に東海道新幹線が開業したのだ。当初は東京〜新大阪を4時間10分で結んでいたが、それは日本の鉄道や旅行・経済に大きな変革をもたらした。

巻頭は今も昔も新幹線時刻表だ。

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驚くことに、巻頭地図は新幹線が掲載されていない。間に合わなかったのか、わかってるだろということなのか、東海道本線があるのみだ。

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ところで、時刻表復刻版は過去にも何度か発売されており、朝ドラの主人公が帰省した時刻などはそれを使って調べている。あるときJTBが「ダイヤ大改正の1か月前の時刻表」という復刻版を出したことがあった。

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それには新幹線開業前の、1964年9月号があったので、それと見比べてみた。

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当然ながら巻頭地図は新幹線が載っていないが、10月号にも載っていなかったとは初めて気づいた。

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新幹線開通後も全体的には夜行列車が多く、東京〜大阪であっても夜行列車の利用がまだまだ多い時期だっただろう。今から思うとうらやましい。かといって、タイムスリップしてまで乗ろうとは思わないけど。

  
| 読書 | 20:22 | comments(0) | - |


チャレンジくん 荘司としお 国鉄完乗を目指す?マンガ
チャレンジくんという1980年前後のまんが本を入手した。
これは当時国鉄が「いい旅チャレンジ20,000km」という国鉄全線を走破するキャンペーンをしていたので、それにタイアップした形で、国鉄系の弘済出版社から発行されたマンガである。全5巻。

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作者は自転車で日本一周をする漫画「サイクル野郎」などの作品のある荘司としお先生。自転車が鉄道に置き換わったような作品だ。

国鉄の「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンは1980年〜1990年の10年をかけて行ったキャンペーンで、宮脇俊三氏の国鉄全線を乗りつぶす紀行文学「時刻表2万キロ」に触発されたものである。それまで一部のマニアの金字塔のような"遊び"が一躍脚光を浴びたのだ。

「いい旅チャレンジ20,000km」は、全国鉄の路線242線区を走破しようとするもので、まずどこかの国鉄路線の始点と終点の駅で撮影した、駅や本人が分かる写真を事務局に送る。すると会員証が送られてくる。以後は各線区の始点と終点の写真を送り、10線区、20線区などの節目には認定証や副賞がもらえた。キャンペーン開始当時は242線区あったが、ちょうど国鉄⇒JRの端境期にあたり廃線も多く、最終的には200線区を下回っていた。
私も国鉄美幸線に乗って会員登録をして会員証をもらったが、その後はキャンペーンとは関係なしに完乗をした。会員証は捨てていないが、今回心当たりを探したが出てこなかった。

「チャレンジくん」はその後「チャレンジ」として「国鉄」を「JR」に差し替えるような修正をして100均のダイソー文庫から2002年に1、2巻が発行されたが、そこはダイソーで3巻以降が発行されることはなかった。だから全巻を読みたかった。

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今ではAmazon Kindleなどの電子出版でも読めるので、電子化は有益だ。

第1巻「いい日 旅立ち」
鉄道模型(Nゲージ)が好きな中学3年生・速見真吾は、学友・角野 学とともにチャレンジ20,000kmを始めた。
だが、乗車中、偶然にも銀行強盗犯と同乗してしまい、ついには人質となってしまう。拳銃を突きつけられた真吾は生き延びることが出来るか?
(原書:1981年9/1刊行)

第2巻「山陰と男の涙」
チャレンジ20,000kmを始めた中学3年生・速見真吾と、学友・角野 学は、偶然、ホテル王のお嬢様で同学年の小暮エミと知り合う。
エミに「本当の母親が別にいるので、その実母捜しを手伝って欲しい」と言われ、3人でヒントを求めて山陰地方へと鉄道を使って向かうのだった。
(原書:1981年12/1刊行)

第3巻「吹雪の中のローカル線」
チャレンジ20,000kmがきっかけとなりホテル王の一人娘・小暮エミと知りあった中学3年生・速見真吾は、エミの実母を捜して青森に向かった。そしてついに二人はエミの実母・中沢シズエと出会う。だが、シズエの本当の子はエミではなく真吾だという。戸惑う真吾。さらに、シズエを付け狙う殺し屋が現れ、シズエに向かってライフルを構える。秘密を抱えたままシズエは殺されてしまうのか?
(原書:1982年2/1刊行)

第4巻「終着駅とハマナスの花」
チャレンジ20,000kmを続けている速見真吾と友人・角野 学は無事高校生になった。
時間的制約がなくなり、日本各地の鉄道を走破する二人。だが、その最中も真吾は、行方不明になっている実母・中沢シズエが気になっていた。そんな時、暗号めいた不思議な手紙が届き、それに誘われるように、北海道に向かうことになる。物語、ついに佳境…!
(原書:1982年4/1刊行)

第5巻「無情の最終列車」
チャレンジ20,000kmを続けている高校1年生・速見真吾は、実父を殺したホテル王・小暮大造のアリバイを崩そうと行動を開始する。
そして、ついに鹿児島県指宿で大造と直接対決する。
真吾の隠された秘密とは…。そして、大造のアリバイは崩せるのか? ついに完結!
(原書:1982年7/1刊行)

このあらすじでわかるように、紀行漫画ではなく殺人事件を追うようなサスペンス漫画である。そして本物の鉄子には絶対にいないような美女が随所に登場して混浴にも入るが、ありえません。
「いや、それはおまえだからないのであって、おれはあるよ」と言う人はコメント欄でお知らせください。

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老後の楽しみに全5巻を読んでみよう。
って、一気に5巻全部を読んでしまった。老後も終わってしまったか。
複雑な人間関係が入り乱れた面白い作品だった。
そして、1980年ごろの列車旅、今は亡き夜行列車、寝台列車、ローカル線、丸い顔の新幹線などが出てきて、昔の汽車旅を思い出させてくれた。

  




| 読書 | 14:44 | comments(0) | - |


ミニ周遊券とお寺の宿 種村直樹著 1973年
レイルウェイ・ライター種村直樹氏の初期の著書に「ミニ周遊券とお寺の宿」がある。1973年に講談社から出版された、もはや絶版どころか古書店でも手に入らない幻の著書だ。

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まずミニ周遊券から説明しなければならない。
当時の国鉄では特定エリアに乗り放題の均一周遊券があった。これはのちにワイド周遊券と改名されている。
特定エリアと言っても北海道全域や東北など、かなり広い地域で乗り放題だった。ちなみにその周遊エリアに行くまでの往復の乗車券もセットされており、急行の自由席なら追加料金ナシで乗れた。

ミニ周遊券はワイド周遊券から乗り放題エリアを絞ったきっぷで、京阪神や函館・大沼などの有名観光地・大都市エリアが対象だった。

ワイド周遊券、ミニ周遊券は国鉄分割民営化もしばらくは発売されていたが、現在は廃止されている。利用者にとってはお得な料金で、JRとしてはいちいちきっぷを販売する手間がないよいきっぷで、私は何度となく愛用していた。

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そしてお寺の宿は今もある宿坊である。

このミニ周遊券とお寺の宿は1970年の万博輸送後の輸送人員落ち込みを防ぐ意味もあったお得で便利なミニ周遊券と、宿坊を組み合わせてモデルコースや宿坊の所在地を示した著書である。

種村氏が毎日新聞社を辞めてフリーになる端境期の本で、しかも天下の講談社からの発売だったが、ターゲットが絞り込まれ過ぎたのかあまり話題にならずに知る人ぞ知る本で消えていった。

宿坊については種村氏の友人の環白隠氏の実家が神戸のお寺だったことから親近感があったのかもしれないし、国鉄からの要請で宿坊をもっと開放しようという働きかけが仏教界にあったのかもしれない。なんでお寺の宿かというと、確証がない。
当時からお寺のユースホステルはあったし、キリスト教ではYMCAに安価で宿泊できた。

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私は2016年に四国のお遍路さんをしたときにいくつかの宿坊に泊った。もう21世紀だったからかもしれないが、部屋や設備については共用部分もあるけれど申し分なかった。食事も十分なものが出た。朝のお務めは強制ではなかったが、異次元体験として参加した。旅行好きなら一度は利用してよいと思っている。

徳島市の大日寺の宿坊と料理 ↓ ↓
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ミニ周遊券とお寺の宿のサブタイトルに「女性のための快適気軽旅行」とある。ディスカバー・ジャパンに触発された若い女性が、パッケージツアーでない個人旅行をし始めたころで、しかしながら女性の一人旅には偏見が残っていた時代だ。その点、お寺の宿なら女性一人でもグループでも対応してくれてしかも安心感があったのだろう。

いま、民泊やゲストハウスに人気があるけれども、お寺の宿はそれほどのブームにならなかったのが残念だ。今でも宿坊は各地にあるし、復権する市場要素はあると思うけれど、運営側の雇用やクレーム処理を考えると、やはり難しい時代なのだろうか。

  
| 読書 | 20:52 | comments(0) | - |


小西由稀の札幌おささる味手帖 〜飲・食・買のおいしい店〜
札幌を中心に活躍するフードライターの小西由稀さんの久々の新刊。
小西由稀の札幌おささる味手帖 〜飲・食・買のおいしい店〜」(財界さっぽろ)がオーストラリア出張中に届いていたので、ようやく紐解いた。

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まず、タイトルの"おささる"。この言葉は北海道弁に通じているつもりの私も知らなかったが、「押す」+「さる」で、ついつい押してしまう状態をいう由。

スマホがカバンの中でおささる。

のように使うらしい。
この場合の「おささる」は、読むと行ってみたいなあと心のスイッチが「おささる」。「飲まさる」「食べらさる」「買わさる」ということだ。

57の札幌の店が紹介されており、この数倍の店を訪れ、味わい、食材から背景から調べて一冊にまとめるのは相当な苦労があったと思う。

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私は札幌も函館も北海道はすっかりご無沙汰だが、小西由稀さんは私の地元の世田谷区にまで足を延ばして味覚を求めており、私の知らない店を教えてくれており、恐れ入る。

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あまたある札幌の飲食店だが、美しい写真と気の利いた文章で、どこの店も入りたくなる。そして極端に高い店はほとんどないし、あってもやはり「おささる」。

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そしておそらくは自分の地元にも「おささる」店はあるのだろう。それを見出していないか、見つける眼力(舌力)がないだけなのかもしれない。

既成のメディアでは、彼女のホームタウンの札幌主体の店の紹介にどうしてもなってしまうから、北海道以外の店はSNSで紹介されるのを期待したい。

  
| 読書 | 19:40 | comments(0) | - |


少年満洲読本 長與善郎著/日本の選択「満州国」ラストエンペラー NHK取材班著
朝鮮満洲旅行案内」を読んでいると、当時の朝鮮や満洲の暮らしぶりがどうだったのか、日韓併合や傀儡滿洲國の影響はどうだったのか知りたくなり、図書館で2冊の満洲関係の本を借りてきて読んだ。
1冊は昭和13年に書かれた「少年満洲読本」、
もう1冊は昭和末期のNHK特集を書籍化した「日本の選択7『満州国』ラストエンペラー」である。
まったく異なった視点で書かれた本で、両方読むととても参考になった。

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私も戦後育ちだから、学校の教科書レベルの知識しか持ち合わせず、それも日教組の教育なので、おそらく偏向していたと思う。さらに20歳下の若い女子社員は「韓国に謝らなければいけない」みたいなことを真顔で言っていたので、私よりあとの世代はどんだけ偏向教育を受けていたのかと驚いた。

満州国は今の中国東北部にあった国である。もともと中央政府の目が行き届かない地域で馬賊・匪賊が牛耳り、さらにロシアの権益も絡んでいた。昭和6年(1931)に満洲事変(柳条湖附近での南満洲鉄道の爆破事件)が起こり、というか起こし、翌昭和7年(1932)に日本の主導で満州国が建国され、昭和20年(1945)の日本の敗戦とともに満州国は消滅した。13年の短命だった。

少年滿洲讀本」は昭和13年5月という"ちょうどいい時期"に日本文化協会ならびに新潮社から刊行された本を徳間書店が復刻した。満州国の未来を支える少年たちに向けて書かれた、夢と希望にあふれる本である。

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教育者である松島公造氏が、自身の仕事と絡ませて中学2年と小学6年二人の息子、一郎と二郎を連れて満洲に旅行をする子供向けの小説である。現地では満洲で生まれ育った従妹の満洲子(ますこ)ちゃんが出迎え、四人で旅行をする物語だ。満洲のすみずみまで紹介する体裁なので、夏休み一ヶ月の旅行となった。観光記のみならず、満洲の気候・風土から、産業である農業・林業・漁業・工業・鉱業・石炭業などの現状と未来、交通、政治や治安、そして国民性などが、詳しく書かれている。
あの時代に生まれた満洲男(ますお)や満洲子という名前の人はかなりいたと思う。

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「少年満洲読本」は満州国になってから昔の中国の時代と比べていかに産業が発展し、貿易額が激増し、人々の暮らしがよくなったのかと解いている。日本は狭くて資源の乏しい島に人々がひしめきあっているが、満洲は(朝鮮や台湾を含めても)日本の何倍もの広さで、資源は無尽蔵。作物は育ち石炭・石油のエネルギーも潤沢にある。

満州国

満洲は国際社会から認められず、国際連盟にも加入できず、逆に日本は欧米が作ったこの連盟から脱退した。
「満洲事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、又国防と、満洲での権益を確り保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった」
「東洋にだって奴隷根性の腰抜け国ばかりいると思うのは間違いだ。実に日本にとっては切っても切れない因縁にある満洲、お互いにどっちの一つが仆れても生きてゆけないような一身同体の関係にある満洲を捨ててしまえと言うのは、とりも直さず日本に『死ね』というのも同じことだ」

と、父親の言葉を借りて自論を述べる。

松島一家は北満まで足を延ばし、民泊もさせてもらい、少年たちはすっかり満洲のファンになってしまった。


続いて読むのは戦後も戦後、昭和末期にNHK取材班によって書かれた「『満州国』ラストエンペラー」だ。つくづく昔のオレはえらかったと思うのは、この本のベースである1987年(昭和62年)に放送された「NHK特集ドキュメント昭和7"皇帝の密約"〜埋もれた最高機密〜」を録画しており、このビデオテープが残っていて番組を見返した。

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NHKがえらいのは、放送の何倍もの取材を費やしているのが本を読むとわかる。最高機密とは皇帝溥儀の通訳だった林出賢次郎氏がつけていた日記のことで、戦後40年経ってご遺族が公開に踏み切った。溥儀は最初は清朝が復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)し、再び清朝皇帝に返り咲くことを夢見ていた、見させられていた。

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満州国の建国には関東軍が深く関わっている。参謀の石原莞爾中佐らが編み出したものである。関東軍とは、日露戦争の勝利の結果、租借した中国の遼東半島と南満洲鉄道とその沿線を関東州と呼び、そこに設置された日本陸軍部隊だからこの名がある。

石原莞爾

満蒙(満洲と蒙古)は、資源の乏しい日本への供給地として、そして南下を企てるロシアの緩衝地として、開拓、あるいは占有が必須であった。そして事実上の占領を果たした。

満州国の政治も治安もすべて関東軍(日本)が握っており、皇帝溥儀を含めて政治も産業も関東軍の言いなりだった。「少年満洲読本」や映画を始めとした"夢を見させる"広報戦略もたくみに行われた。

溥儀

だが日本への資源の供給地としてだけで、ロシアの防波堤としてだけで満洲はあったのだろうか。日本の発展のためだけに満洲はあったのか。欧州諸国はアジアやアフリカ各地に植民地を持っていたが、単に資源だけが目的なら植民地でもよかったはずなのに、なぜ満州国という新しい国を作ろうとしたのか。「五族協和・王道楽土」というコンセプト立案や、皇帝溥儀を担ぎ出しての政治統制システムは誰がどうやって考えて実現したのだろうか。

満州エリアは当時の中国政府もあまり力が回せず、張作霖や息子の張学良らの馬賊・匪賊に牛耳られていたいわば無法地帯であり、傀儡であったとしても"ちゃんとした統治システム"が出来たのは良かったと思う。ただし、今の中国が文句を言うのは、他国の力でそれがなされるのがイヤだったからだろう。だが、日米安保条約のように治安も日本が守ってくれたし、インフラも日本が整備したのも事実である。ISIS(イスラム国)よりもよほどまともだろう。

「日本が悪」と考えている日本人は多いはずだが、むしろロシア(ソビエト)の日ソ不可侵条約を一方的に破っての侵略や、イギリスのアヘン戦争による対中(清)政策、あるいは中国がインドネシアの新幹線工事でした実現不可能な詐欺のような行為のほうがよほど悪だと思う。自分たちの権益のみだからだ。
言い換えれば、あの時代にしては日韓併合も満州国建国もまともな手段ではなかったか。

そして満州国が今もあったなら、あのエリアは今の何倍もの経済発展をしていたはずだ。それは日本が手を引いた北朝鮮を見れば明らかだし、ロシアが実効支配している北方領土を見ても、政治を日本がつかさどっていれば、もっと発展していただろう。

「五族協和」は五族つまり日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人がともに助け合って発展していこうというスローガンであり、「王道楽土」は王、つまり皇帝溥儀を中心として人民が幸福に暮らせるという理念だった。本当にそういう理想に向けて満州国の仕組みを考えていたのか、それとも甘言で中華民国や国際社会を欺こうとしたのか、私にはわからない。
しかし傀儡や欺瞞でその理想が出来上がるとも思えない。「満洲は日本の生命線」という、資源を搾取するための譎詐(きっさ)が「五族協和・王道楽土」だとしたら、企画としては出来すぎている。

オレオレ詐欺の新種が次々と出てきて「よく考えるなぁ」と思うが、満州国プロジェクトはそれ以上の詐欺だったのか。
いや、それだけではないと思うのだ。

  
| 読書 | 19:03 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<11> 昭和11年(1936)の旅行ガイド 旅順
続き
昭和11年三省堂から発行された「朝鮮満洲旅行案内」を読む。
内地から外地への旅行ガイドとして、また外地の地勢や産業を知る本として愛読されたようだ。
ほどなく日中戦争が始まり、さらに太平洋戦争が始まり、物見遊山の「旅行」はおおっぴらに出来なくなり、切符類も買えなくなったから、「日本が一番良かった時代」の残滓として往時を偲べる。

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今回、満洲の入り口で、私の父が中学時代を過ごした旅順の項目を紹介する。日露戦争で甚大は犠牲者を出した場所として、このころから戦跡めぐりの地になっていた。
現在は中国の大連市旅順口区だ。

旅順
旅順は關東市制に基づく自治都市の一で、遼東半島の最南端に位し、南面には紺青の色鮮やかな渤海を控へ、背面は屏風を繞らしたやうな高丘に圍まれ、老虎尾半島と賞金盲置とによって抱かれた港灣は内陸深く入り込んで自らなる要害をなし、風光の明媚、氣候の温和なること州内第一の稱がある。{人口約三萬]

此の地は古く「獅子口」と呼ばれ、明時代になってから、南方から滿洲へ渡來する移民が多くなるに從って、船舶の寄港漸く繁く、水陸行旅の順路に當ったので「旅順」といはれるやうになったといふ。
天然の要害をなす此の地は、常に歴朝軍の根據地となり、高句麗はここを邊東に於ける策源地とし、唐は高句麗を破ってこゝに築城した。明代には金州の防備所となり、清代に入ってから、太宗は旅順の北四粁の水師營に屯營を置いて山東攻略の水師を動かし。また康熙帝もこゝに本營を段けて海陵の防備を巖にした。


日露戦争における旅順口閉塞作戦は有名で、ロシア海軍の海上輸送を閉鎖しようとしたが、3回にわたる戦いでも成功したとはいい難かった。

我軍の手に歸してからは、最初軍政を布いたが三十九年八月軍政署を廢して關東都督府を設け、同四十年鐵道業務竝に州外鐵道附屬地に於ける教育・衞生土木等の施設が滿鐵の管理に歸してからは、都督府は關東州内行政事務のほか、鐵道曾社の監督竝に鐵道線路の警務上の取締及軍事行政を統轄することとなり、更に武官制度から文官制度に革められ、現在の關東廳制となったのである。而して大正十三年八月一日關東州市制に基いて自治市として認められ。新市制の實施を見るに至った。
市街は中央を流れる龍河によって二分せられ、東を「舊市街(旧市街)」、西を「新市街」といふ。舊市街は主に商業區で、新市街には官衙・學校が多く、住宅區となってゐる。


映画やNHKドラマ「坂の上の雲」でも有名な203高地は西部にある。ここの攻略も多大な犠牲を払った。業務で行く人以外は戦跡めぐり、巡礼・鎮魂の地であったのだろう。

【舊市街(旧市街)】白玉山の東麓、教場溝川に沿うて長く漣り、大體(大体)旅順の商業區をなし、乃木町・青葉町・迎橋一帶が賑ってゐる。しかし商業は大連に奪はれて餘り振はない。日滿混住であるが、滿洲國人は教場溝川の上流に多い。また黄金山下の東港に面して船渠・兵營などがある。

【新市街】龍河に臨む將軍山の西、湖水のやうな西港に面し、關東廳・博物館・工科大學を始め、多くの諸官衙・學校及それら關係者の官舍から成り、其の主な建物はロシヤ時代の建設に係るものである。街路は極めて整然、兩側に植ゑられたアカシヤの姿もゆかしく、附近は頗る閑靜である。

【博物館】新市街にある。滿蒙の物産工藝品及各地の參考品を陳列し、滿蒙の現況・風俗等を知らうとする者の好資料。これに隣る考古館には滿洲竝に支那各地の考古的資料の逸品が陳列されてゐる。

【戰利記念品陳列館】舊市街の東端にある。もと露軍下士集會所であった建物を其のまゝ利用したもので、彈痕が殘ってゐる。當館には、當時使用の軍器及軍服、戰前戰後の砲臺模型、防禦物の構造解説、攻圍戰實況寫眞、參加諸將軍の肖像等が陳列されてゐるから、戰蹟巡覽の人は是非見ておくのが必要且便利である(入場料大人一〇錢、團體二〇名以上半額、學生・軍人・小人無料)。


旅順駅前の写真。馬車が1台止まっている。

旅順駅前.jpg

旅順観光は今も戦跡めぐりと言っても過言でないので、その部分を紹介します。

旅順戰跡巡り
日本帝國の國運を賭した日露戰役、そして其の戰爭の勝敗を決すべき旅順の攻圍戰は、いかにしても勝利の榮冠を我軍に收めなければならぬ戰であった。されば忠勇なる我戰士は、言語に絶する慘憺(さんたん)たる辛苦を嘗めること約半歳、遂に難攻不落と稱せられた旅順の要塞を陷落せしめたのであった。
半島の腥氣(せいき=なまぐさい臭い)徐ろに去って茲に三十年、旅順の山河は今麗かな平和の光に包まれてゐるが、一度比の地に遊んで戰蹟を訪ね、そゞろに常時を偲ベぱ、まざまざと當時の激戰の樣が目に浮んで、洵(まこと)に感慨無量のものがある。そして訪ふ人のいづれもは唯々戰沒將士の英靈に心からなる感謝を捧げずにはゐられない。


【閉塞隊員埋葬地】驛前から白玉山に登る坂路の途中、右方の山麓にある。第三回港口閉塞に戰沒した我勇士の屍をロシヤ側で手厚く葬った所で、誠に好個の記念地である。今はこゝに櫻樹を植ゑて「櫻山公園」と稱している。

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【白玉山納骨祠と表忠塔】白玉山は旅順の新・舊兩市街の中間に挾まる孤立峰で、高さ一三六米餘。もとは半永久的の防禦工事を施した堅固な砲臺があった。頂上は瓢形をなし、其の北方の膨らみに、南面して納骨祠が建ち、南の膨らみには表忠塔が巍然として聳えてゐる。「納骨祠」には日露戰役に戰沒した我忠勇なる陸・海軍の犧牲者二萬二百餘の遺骨が納められ、毎年春・秋二季に祭典が行はれる。

白玉山塔。

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表忠塔は乃木・東郷兩將軍の發起によって建設されたもので、其の規模の宏大なること我國建築界屈指のものといはれ、圓壔形(円筒形)で高さ六六米餘、頂上は砲彈形の尖塔をなし、千古不滅の燈明臺となってゐる。一度此の塔上に立って四方を望めば、半島の全景は悉く雙眸に集まり、一大パノラマの觀がある。即ち南面すれば老虎尾半島の尖端 威遠砲臺と黄金山砲臺とが作る狹い港口を眼下に俯瞰し、當時幾たびかの港口封鎖に我海軍の決死隊が活躍した旅をまのあたり見る心地がせられる。北面すれば、納骨祠の背後にあたって、東方から順次西方に向って白銀山・東鷄冠山・望臺・二龍山・松樹山・高崎山・海鼠山・爾靈山等いづれも當時の激戰を物語るかのやうに蟠ってゐる。

【爾靈山(二〇三高地)】新市街の西北約四粁、其の名の示す如く標高二〇三米、旅順諸山中の最高點である。山麓まで馬車を通じ、登路は完全に出來てゐるが、かなりの勾配である。 山頂に立って四顧すれば、新市街はもとより、灣内の光景を一眸の裡に收め得ベく、此の高地の攻略が當時我軍にとっていかに重要であったかを思はしめるものがある。

實に我軍はこゝを占領するがために、旅順攻圍戰中最大の犧牲を拂ひ、尊き肉彈を捧げたのであった。こゝは開戰當初には何等の設備もなく、高崎山陷落後、急に堅固な半永久的防備が施されたもので、第一回總攻撃の時には我軍は未だ本高地に達せず、遲れて九月、第十五連隊長香月中佐の手兵によって陷落せしめられたが、僅か數時間で再ぴ敵に奪還された。第二回總攻撃には除外、第三回總攻撃には否が應でも陷落せしめねばならない必要に迫られ、第一師團に代った新鋭第七師團の十一月二十七日から九日間に亙 強襲で漸く占領し得たのであった。
此の高地攻撃に失った我が士卒の數は七千五百、實に旅順攻圍戰戰沒者總數の約十分の一を失ったのに見ても、いかに苦戰であったかが想像される。其の流血と死屍とに蔽はれた山頂は今なほ雜草も生ぜず、當時の塹壕の跡もありありと見えて、そゞろに回顧の涙を禁じ得ざるものがある。
山頂には乃木將軍の有名な爾靈山之詩、
「爾靈山險豈難攀、男子功名期克難。鐵血覆山山形改、萬人齊仰爾靈山」
を彫した碎が屹然として立ってゐる。また北方山腹の斜面松林の中には「乃木保典(乃木希典将軍の息子)戰死の場」と刻んだ碑がある。共に英魂を千古に傳ふるものである。


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爾靈山(にれいさん)は高さが203mあったので203(にいまるさん)高地と呼ばれた。

【東鷄冠山北堡壘(堡塁)】驛の東北約五粁にある。近世式築後法によった永久砲臺(砲台)で、旅順背面の防禦砲壘中典型的のものである。
我軍は第一回總攻撃以後、正攻法を採って坑道作業を行ひ、第二回總攻撃の時には辛くも此の外壁ペトン掩蔽(えんぺい=おおい隠す)部の一部を占領し、爾後其の掩蔽部穹窖(きゅうこう=弓形の穴)内に於て彼我十數尺の間に對峙し、息づまるやうな肉薄戰を演じたのであった。第三回總攻撃には胸墻(きゅうしょう=胸の高さほどの盛り土)部の爆破の餘波を受けて無慘にも我突撃隊は其の掩蔽下に生埋めとなり、第二の突撃隊は戰友の埋沒を見殺しにするに忍びず、こゝに奮ひ立って遂に最後の勝利を得たのであった。此の堡壘を訪れて其の涙ぐましい凄慘な戰話を聞く者、誰か無限の感慨なきを得よう。
なほ堡壘後部掩蔽部の咽喉部に、我戰蹟保存會によって建設されたコンドラチェンコ將軍の碑がある。同將軍は我乃木大將に比すべき敵の名將で、十二月十五日軍議中我二十八珊砲榴彈のために戰死したもので、ために露軍は士氣大いに沮喪(そそう=氣力がくじけて勢いがなくなる)し、爾後二旬を出でずして開城となったのであった。

【望臺】北堡壘の背後に聳え、標高一八四米、東方戰線中の最高峰で、西部戰線の最高陣地二〇三高地と相對してゐる。攻圍戰最後の活劇場で、山頂に今なほ敵の使用した海軍砲二門を留めてある。こゝは櫻井(忠温)中尉が重傷を負うて轉落した所で、名著「肉彈」に書かれてゐる現場である。

【ニ龍山堡壘】望臺の中腹を拔け、更に少しく進んだ所にある。永久堡壘中最大のもので、鐵道線路を隔ててクロバトキン堡壘と相對し、我軍の後方連絡を絶つに最も有利な地を占めてゐる。第一回總攻撃後、二龍山攻撃に支障となる鉢卷山を占領し、第二回總攻撃を經、第三回總攻撃に大爆破を行ひ、辛くも十ニ月二十九日にこれを占領したのであった。此の戰に敵の殘兵僅かに三名であったのに見ても、いかに激戰であったかが知られる。


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【松樹山堡壘】東部諸堡壘中最南端に位する永久堡壘で、龍河流域の平地を隔てて西部諸堡壘中の椅子山・案子山堡壘と相對してゐる。我軍は第一回總攻撃の結果により正攻法に着手し、第三回總攻撃に於いて、堡壘爆破が理想的に行はれて、十二月三十一日遂に陷落せしめたのであった。背後に當る松樹山補備堡壘は、白襷隊の攻撃で有名な所である,

【水師營】松樹山の北西平地にある。旅順が遂に陷落し、 一月五日、我攻圍軍司令官乃木將軍と露國關東軍司令官ステッセル將軍とが會見した所で、當時使用した民家と有名な棗(なつめ)の樹は今もなほ戰蹟保存會の手によって保存されてゐる。

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【露國忠魂碑】市外小案子山の東麓にある。我政府が建立したもので、長さ約一五〇米、幅約四〇米の煉瓦塀内には露國戰沒者一萬四千六百三十一の英靈が眠つてゐる。これは實に敵にも厚き我武士道の精華を世界に示したものである。


ロシア軍のステッセル将軍と乃木大将との水師営の会見は、歌にも歌われて有名だが、軍の施設ではなく民家だったようだ。武士道精神からロシア軍への忠魂碑を立てたとのこと、今も残っているのだろうか。

〔視察順路〕


旅順の戰蹟巡りは一般に馬車及び觀光バスによるのが普通である。馬車は四人までは乘れるが、窮屈であるから二人乃至三人が適當である。觀光バスは七人乘であるが現在は二臺のみである。
馬車・戰蹟案内者等の雇傭は旅順驛長まで申出られるのがよい。案内料は六人迄ニ圓、十人迄三圓、二十人迄三圓半、二十人以上は四圓である。なほ滿洲戰蹟保存會では驛前に案内事務所を置き、現地には説明者を派して無料奉仕してゐる。


バスが7人乗りで2台しかないというのがかわいい。

<了>

さて、
祖母の実家から出てきた三省堂の「朝鮮満洲旅行案内」はすでにカビが生えているような状態だった。旧字旧仮名遣い小さい文字で読みにくく、OCRもまともに判読しなかったが、私にとっての主要な部分はデジタル化できた。

あの時代が「良かった」と思うのは幻であり、昭和末期のバブル時代以上にバブルだったと言えよう。
まだ、紹介していないページのほうが多いのだが、とりあえず「朝鮮満洲旅行案内」の解読はいったん終りにする。

制作の苦労と違ってほとんど「いいね!」も付かなかったし、読者ウケしなかったと言うことです。おそまつさまでした。

  
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