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種村直樹自選作品集4 鉄道を書く 1975−77 北海道気まぐれ列車
レイルウェイ・ライター種村直樹氏の全集にあたる自選作品集の第4巻は1975年から77年にかけての、レイルウェイ・ライターとしての活動が軌道に乗り始めた時の著作集である。

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この本は2001年11月22日に発行されたが、ちょうど1年前に種村氏はくも膜下出血で倒れた。そのためこの本の発行も遅れた。しかしその直前にこの第4巻の収録作品の粗選びも終わっていたようで、この本の収録作品は術後に調整したものである。そしてあとがきを読むと第1期全6巻という記述があり、確かに「鉄道を書く」は6巻まで出たが、第2期も構想にあったということか。種村氏の度重なる病気と版元の中央書院の倒産でそれも幻に終わった。

この第4巻のメインは「北海道」である。
書下ろしの「新・道南気まぐれ列車」は退院後の2001年の初夏に敢行された。それに1955年夏の京都大学に受かった夏休み旅行の「北海道気まぐれ列車前史」、1975年のレイルウェイ・ライターになってからの若い読者との二人旅の「北海道気まぐれ列車」の3部作である。

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「北海道気まぐれ列車」はレイルウェイ・ライター独立後の種村氏の気まぐれ旅のスタイルや、取り巻きと一緒に巡ってその素行を取り上げる著述のスタイルの原型になった記念すべき作品である。自選作品集のほかにも「気まぐれ列車で出発進行」やシグナル社「北海道気まぐれ列車」でも出版されているので、種村ファンには比較的目に触れる機会も多い作品と思う。

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1975年6月の「北海道気まぐれ列車」は事務所のバイト君でもあった読者の辻聡氏(当時一橋大学)との二人旅で、北海道ワイド周遊券を5月の冬季割引期間中に購入しての2割引きの旅だった。
客車列車で巡る大まかなコースは決めているものの、宿も行先もその時任せ。人づてに話を聞いて面白そうならそこで降り、そちらに向かう気まぐれ旅だった。

初出は「旅と鉄道」1975年秋の号「旅を楽しくする実践講座」で、紙幅の都合もあり、かなりはしょった記述になっている。そのため、文体も他の作品と異なっている。実業之日本社/講談社文庫の「気まぐれ列車の時刻表」およびシグナル社の「北海道気まぐれ列車」に掲載されたルポは翌1976年の旅も加筆してあり、より詳しく旅の内容が分かる。

むしろハイライトは「北海道気まぐれ列車前史」だろう。前史と名づいているのは後付けであり、1975年の旅があったから、学生時代の忘れられない旅を振り返り、それを「前史」としたのだ。
こちらの初出は変わっている。読者の一人の山口晴好氏が主宰する「夢いっぱいの会」のガリ版刷りの会誌「オリオン」に寄稿した作品であり、5回に分けて連載された。
プロがこのような会員誌に寄稿することも、会員誌に5号も連載することも、ということは会員誌が5号以上も続いたことも、今からは想像しがたい出来事であるが、それは現実だった。

1955年、中学時代の同級生で現役で東京大学に受かっていた横田氏と北海道を巡った旅で、飯盒持参の自炊、宿を尋ねた人の家に泊めてもらったり、その家の紹介で別の土地に泊まったり、列車内で知り合った人の家に泊まったりの、今からは信じられないおおらかで心の豊かな時代の旅が再現されている。宿もバンガローだったり番頭の寝室だったりと、金のない学生ゆえの破天荒な施設が出てくる。
私はユースホステルや国民宿舎に何度となく泊まったけれども、それらの登場前の旅だった。
「前史」はまさに冒険に近く、今ならユーラシア大陸横断に匹敵するような旅だったのだろう。この旅行で種村氏は自然と旅の極意を学んだ。



この作品を読んで、いやでも脳裏に浮かぶのは串田孫一氏の「「北海道の旅」である。1962年と、種村氏の前史から7年後の旅もほぼ同じで、まだ馬が交通機関の開拓の血が生きている北海道の姿が蘇る。
串田氏は現地で知り合った朝倉君と二人で回るが、特に連絡先を聞くでもなく別れる。
大勢の取り巻きと回る種村氏と好対照で、手に入るならぜひ読んでほしい一冊だ。

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「昔はよかった」
と老人は言う。明日のダイヤ改定で消える列車、増える列車などがあるが、新型コロナウィルスで減便が予定されている。だが、長距離鈍行が当たり前で、人々の生活に国鉄がしっかり根付いていた時代、人と人とが助け合い、見ず知らずのその場であった人を家に泊める鷹揚さがあった時代。
今の若い人は
「うざったい」
と言うのだろうが、その時代をちょっと知っている私は幸せなのだろうか。

この「前史」で種村氏たちは多くの人々のお世話になり、手紙が続いたり会いに行ったりもした。
「気まぐれ列車で出発進行」の末尾には「人生には無数の出会いがある。その全てをつなぎとめておくことは不可能だ。しかし今、あらためてペンを執ってみると、通り過ぎてしまった出会いのひとつひとつが、宝石のように輝きを増してくる。それぞれに手がかりがあるのだし、この本を刊行したら、できるだけ早い機会に、この方々や関係者をたずね、感謝の意をこめてお渡ししたいようにも思う。その反面、このまま自然に任せておいたほうがいいのではないかという意識もある。何度か考えて、結論を出したい。」
と結んでいる。そして種村氏は自然に任せた。

だが、種村氏の没後に私が書いた「贋作・北海道新幹線気まぐれ列車」にはこれらの人々に会う伏線回収を施しておいた。



   
| 読書 | 18:06 | comments(0) | - |


鉄道を書く 種村直樹自選作品集2 1970〜73
種村直樹氏の<鉄道を書く>は、種村直樹自選作品集とあるように<全集>の位置づけだ。全部で6巻からなり、今回はその2、1970〜1973年の、レイルウェイ・ライターに独立する前、毎日新聞本社勤務の国鉄担当記者時代の記事をメインに、バイトで書いていた鉄道ジャーナルなどの記事のアンソロジーだ。

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版元は今は亡き中央書院。当時も無名の出版社だったが急速に種村氏に近づき、このアンソロジーのほか"乗り歩き"紀行を何冊も出版している。
当時の女社長だった竹森澄江氏とはお会いしたことがあり、種村氏によれば"昔美人"であった。

過去の作品の寄せ集めにしたくなかったのか、書かずにいられなかったのか、巻頭ルポとして書下ろしの「東北・奥羽本線鈍行乗り継ぎ紀行」「2000年スピード乗り継ぎ」「思い出の武蔵野線 今と昔」が掲載されている。

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この本の出版は2000年4月で、最初に病で倒れたのが2000年11月だったから、その半年前となる。2000年上旬はほかにも何冊も出版しており、鉄道作家として地位を築き、宮脇俊三氏と並んでその道の(鉄の道の)第一人者として迎えられていたのだろうと思われる。

「東北・奥羽本線鈍行乗り継ぎ紀行」はすでに山形新幹線も開業していたときに、あえて鈍行で編集担当でのちに中央書院の社長になる芳賀郁雄氏と旅したルポだ。出版が遅れ、このころはまだ原稿の遅れよりも版元の事情だったと思うが、山形までだった新幹線が新庄まで延伸したので急遽その補正をしたとある。

上野から下北半島の恐山までの、峠の力餅やすき焼き弁当を食べながらの、のどかな旅だった。

「2000年スピード乗り継ぎ」は新庄延伸を踏まえた東京から青森の特急早乗り、「思い出の武蔵野線」は1973年のレイルウェイ・ライターとしてスタートした時に開業した武蔵野線の今昔を探る旅だった。

過去の作品では「45時間半・日本縦断特急の旅」は1972年の鉄道百年の記念企画。国鉄最南端の西大山駅から最北端の稚内駅までの早乗りルポだった。この時は鹿児島から岡山まで寝台特急が走っている時代で、45時間半かかった。
ちなみに東北新幹線と夜行の快速はまなすが運用されているときが25時間51分の最短だったが、はまなすがなくなって現在は30時間42分と所要時間は遅くなる。
種村氏は何回かこの早回りに挑戦していた。

これらのタイムリーな記事は今となっては昔話にも記録ならず、私のように往時を知っているものが懐かしむ程度である。しかしエッセイはその類ではない。

「記憶」は1971年の国鉄部内誌の記事だ。
幼いころ車掌に憧れた。しかし車掌にはなれなかったという書き出しで、車掌さんの思い出をつづっている。
1日間違えて指定席に乗ってしまった老婆と孫。車掌は空いている調整席に案内し「安心して乗っていてください、損料は取りませんから」と坊やの頭を撫でた優しい車掌。
グリーン券を持たないで乗って来たスキー客。「好きで乗ってんじゃねえよ、駅の指示で乗ってんだ」とクレーマー客に「次の駅で降りてください」と毅然と対応する車掌。
これは今読んでもほっこりする。

1000年前の紀行文でも現代に読み継がれるものがあれば、情報鮮度は高いが1分で読み捨てられる紀行文もある。どこにターゲットを絞るか、難しいところだ。

  

  

| 読書 | 19:50 | comments(0) | - |


種村直樹の北海道汽車の旅・山陰汽車の旅 ビクター レコード
2014年に亡くなったレイルウェイ・ライター種村直樹氏は声が良く滑舌明瞭で、名古屋CBCラジオの「ばつぐんジョッキー」のパーソナリティを務めていたことがある。晩年の脳梗塞の後遺症によるろれつの回らない発話は、本人が一番イヤだったと思う。

病気の気配もない1980年初頭、その美声を買われてか、ビクター音楽産業から「種村直樹の北海道汽車の旅」、続いて「種村直樹の山陰汽車の旅」のレコードを出したことがある。このころ、音の素材の普及方法にレコードやカセットテープしかなかった時代、音楽のみならずプロレス中継やSL走行音など、なんでもレコードになって発売されていた。

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私は解説カードのイラストを依頼されたので、北海道汽車の旅はカセットを、山陰汽車の旅はレコードを1つずついただいた。
種村直樹コレクションのあるしばうら鉄道工学ギャラリーにこれを展示しようと、レイルウェイ・ライター事務所を捜索したのだが出てこない。どこかにあるはずだけれど見つからなかったので、とりあえず私の手許の現物をお見せします。

振り返れば、ビクター音楽産業株式会社の雲下直彦ディレクターが種村氏のファンでこの企画が持ち上がった。現地の録音とちなんだ歌、そして種村氏のナレーションで構成されたレコードだった。
解説カードのイラストは、単なる挿絵でなく現地のイラストマップの体裁になったので、雲下氏や種村氏との打ち合わせには私も参加した。そして「北海道だったら札幌市電の"ささら電車"なんてどうですか」などの私のアイデアも採用され、雲下ディレクターが録音しに行った。イラストマップの内容は私がすべて任され、現地取材はなかったけれど、何度か行っているエリアだったので、インターネットはまだないが情報を盛り込んで、楽しく現地を紹介できたと思っている。

種村直樹の北海道汽車の旅
ビクター音楽産業株式会社 1982


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A:
1.イントロダクション
 根室本線 音別-白糠間の波打ち際を走る普通列車
2.<はつかり11号>深夜の青森到着と青函連絡船
3.函館〜根室 714.6km 特急、急行の旅
 <北斗1号、おおぞら1号、ノサップ3号>と納沙布岬
4.釧網本線の旅
 茅沼と丹頂鶴〜浜小清水・北浜間、流氷と644列車。他
5.雪の常紋信号場、スイッチバックで急勾配を登る

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B:
1.函館〜稚内 682.5km 鈍行列車の旅
 函館発旭川行 121列車 13時間26分の旅
 旭川発稚内行 さいはての地を行く321列車の旅
2.日本最北端の地 宗谷岬と稚内港フェリー
3.道内のローカル線を訪ねる

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◎挿入曲「いい日旅立ち」「宗谷岬」 歌/ボニージャックス

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この北海道〜が好評だったのか、1984年に山陰〜が発売された。

種村直樹の山陰汽車の旅


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〈第一面>
「出雲一号」で山陰への旅立ち〜
餘部鉄橋通過〜米子と境線、大篠津〜木次線亀嵩と出雲坂根
〜一畑電鉄と出雲大社、日御崎〜津和野とSLやまぐち号

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〈第二面〉
思い出の日本最長鈍行、824列車の旅
(門司〜福知山595.1km 18時間29分の旅)
門司発〜下関発〜須佐着発〜出雲市着発〜松江着発〜米子
着発〜倉吉着発〜鳥取着発〜餘部鉄橋通過〜福知山着

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挿入曲「遠くへ行きたい」
永六輔作詞、中村八大作曲、小六禮次郎編曲 歌=ボニージャックス
「旅情」
岩谷時子作詞、いずみたく作曲、親泊正昇編曲 歌=ボニージャックス

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ビクター音楽産業株式会社
(C) 1984 MADE IN JAPAN

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音源はすでにMP3にしており、パソコンで聞いてみるとつまらないww。
対象の線区や演出が「ローカル線の旅情」というコンセプトだから、暗いイメージは音からも否めなかった。

著作権は置いといて、しばうら鉄道工学ギャラリーでBGMのように流そうかという案があったけれど、じっと聞けばともかく、音楽のように流して聞く内容でないので、辞めた。
| 読書 | 18:25 | comments(0) | - |


種村直樹 駅の旅 その1、その2 自由国民社
レイルウェイ・ライター種村直樹氏の著作を振り返っている。
今回読んだのは「駅の旅」で、その1、その2の2冊だ。

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もともとは東京新聞(中日新聞)水曜日の朝刊レジャー面に、1995年11月から1998年7月まで、137回の長期連載をした、1駅ずつ紹介するコラムだった。連載開始後から自由国民社の宮下啓司旅行書編集長に目に留まり、単行本化の話が持ち上がっていた由。

だが連載を終えて東京新聞の許可をもらって本にしようと、テーマごとに駅をまとめてみたら、書いていない駅がいくつか見つかり、再取材と巻頭の書下ろしを加えて、その1が発行されたのは奥付から1999年5月、その2は2000年1月になっていた。

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20年前の情報を読み返すと、駅を紹介するデータベースとしてはいささか古くなっているが、それでもwikipediaの無味乾燥とした説明とは違って種村氏の目を通した、味のある生き生きとしたライブ感が伝わってくる。

まず巻頭の書下ろし取材は、その1は「雪の奥飛騨信越気まぐれ列車」、その2は「ぐるり四国気まぐれ列車」で、いずれもカラーグラビア付き。カメラマンはおなじみの荒川好夫さんだ。



屋内の写真はカメラに取り付けたフラッシュを光らせて撮影しているので、ノペっとした写真になっている。当時のプロはリバーサルカラーフィルムを使っており、ISO100程度の感度での撮影だったからフラッシュは必須だっただろう。今のデジタルカメラは画像が多少荒れるけれどもISO6400くらいまで感度を上げられるから、室内でもフラッシュを使わずにきれいに撮影できるようになった。

このころはまだ「周遊きっぷ」というJRのトクトクきっぷがあり、これを利用している。そして時間効率のために飛騨も四国もレンタカーを借りて、冬の奥飛騨は荒さんの運転だが、夏の四国は種村氏も運転している!

書かなければいいのに、苦言の連発。駅弁の内容、下校の高校生、四国の山奥の駅に貼られた北海道ルスツのポスター(意味がない)などなど。

そして香川県の金蔵寺駅で周辺散策のため待合室にザックを置いたままぶらついて戻ってきたら、ザックがなかった。

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どうやらガラの悪い高校生集団に物色されたらしく、ザックは倉庫に捨てられて、筆記用具、500円玉10個、撮影済みのフィルム3本、携帯用ルーペ、薬を入れた袋(女性読者の手作り)、ヘアブラシ、たばこなどが盗られていた。

これまで種村氏は「日本のローカル駅の無人待合室に荷物を留守番させて散歩しても大丈夫」と、日本の治安の良さを書いてきたのに、それが崩れたのが失せ物以上にショックだったという。
そうだろう、20年後は外国人旅行者も増えて、これまでの日本の常識がまったく通用しないのだから、今では無人駅の待合室に荷物を置いてでかけるなどあり得ない。

数年前、ドイツ国鉄のホームのベンチにスーツケースをチェーン錠で括りつけて遊びに出かけた日本人男性が、危険物を放置したと警察が出動した例がある。爆弾は入っていなかったが、お灸をすえられただろう。

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後半の、本来の「駅の旅」は、東京新聞連載時から多少はリライトしているのだろうが、日本の東西南北の駅、高い駅、低い駅、温泉とつく駅などなどのリスト。読み物としては楽しいが、20年経ってもはや実用には適さないだろう。

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意外だったのは、東京駅の復原に種村氏が反対していたこと。戦災で焼けて応急的に角ばった屋根の駅舎になっていたのを、そのままで補修して戦争の悲惨さを後世に伝えるべきとあった。
東京駅復原完成は、まだ種村氏存命の時だったが、外出がままならない身体になっており、その姿を肉眼で見ていない。

私は、さぞ見たかったことだろうとイラストを描いたが、見たくなかったのだろうか。



  
| 読書 | 19:41 | comments(0) | - |


種村直樹 新顔鉄道乗り歩き 1990年 中央書院
このところ、ちまちまと種村直樹氏の作品を読んでいる。

気まぐれ列車だ僕の旅 九州・南西諸島渡り鳥 2000年
バス旅 春夏秋冬 1997年
気まぐれ郵便貯金の旅 ただいま3877局 1997年

鉄道を本業とするレイルウェイ・ライターにしては、
渡り鳥=離島フェリー
バス旅=バス
郵便貯金=旅行貯金

と、さながら異種格闘技のような著作である。だが、1980年代から20世紀末まで種村直樹氏はノリにノっており、「種村」の名をつければ一定数の本は売れると踏んだ出版社が次々と執筆を依頼して、なかば趣味のバスや郵趣にまで踏み出した著作を連発した。
国鉄民営化・第三セクター化によってさまざまな鉄道会社、車両や切符が世に出たことも大きく影響している。
一方で、合理化はますます進み、廃線・廃駅・サービス低下も否めなかった。

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新顔鉄道乗り歩き」は中央書院(2011年自己破産)の「汽車旅ベストコース」の姉妹編の位置づけで、87年から89年にかけての実際の乗り歩きルポをまとめた著作だ。
1988年に開通した青函トンネル、瀬戸大橋をはじめ、全国の第三セクターや地下鉄などの都市鉄道のちょっこしした新線開業のルポで、これぞ本業である。

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まだ、急行、夜行列車、寝台車が各地に走っており、食堂車やワゴンサービスもあちこちで見られた、古き良き時代が活写されており、ついつい「昔はよかった」と思ってしまう。
しかし本書の中でも種村氏は車販の人員削減などを嘆いていたから、現在の姿を知れば、さぞ悲しむことだろう。

本書の「東北の変わり種駅めぐり」は書下ろし、他も「運輸界」「鉄道ジャーナル」などに寄稿した文を修正したものである。また、私が読んだのは1998年の第三版で1990年の初版からの変更点は注記されている。

特に東北の東北新幹線がまだ盛岡どまりで急行が闊歩していたルポは、国鉄車両の匂いまで鼻腔に甦り、昔の汽車旅を懐かしく思えた。

最終章の営団地下鉄(現:東京メトロ)の「片道最長きっぷ」は日本交通公社出版事業局(現:JTBパブリッシング)の「新・地下鉄ものがたり」のための企画で、実際にJTB担当者と乗ったのだが、紙幅が尽きて積み残しになり、思いが立ち切れず本書に収録した由。そういう他社が絡んだ舞台裏は書かないほうが良いと思うが、書くのが種村流である。

巻末の広告を見ると、中央書院の本は「アメリカ大陸乗り歩き」「ぶらり全国乗り歩き」「日本あちこち乗り歩き」と、「気まぐれ列車」の表現を使っておらず、気まぐれ列車のタイトルは実業之日本社に遠慮したのだろうか。中央書院は「乗り歩き」シリーズを定着させたかったのかもしれない。

  

| 読書 | 18:42 | comments(0) | - |


種村直樹 気まぐれ郵便貯金の旅 ただいま3877局 自由国民社
レイルウェイ・ライター種村直樹氏の"趣味"に旅行貯金があった。
旅先の郵便局で少額を貯金し、その郵便局名のゴム印と局長印を押印してもらうことでその土地に行った証にする遊びだ。遊び・趣味と言っても貯金でお金がたまるのだから、よいことだ。一方で、郵便局の正常な業務を妨害しているという意見もあるが、おそらくは旅行貯金という行為よりも、その行為をしている人・特定個人に対しての批判だと思う。

私も種村氏に触発されて、一時は旅行貯金に夢中になっていたことがある。家族での北海道旅行では一家で行く先々の郵便局で貯金をしていたし、会社の同僚馬場浩士君と旅行した時は「旅行貯金で時間が遅れる」と怒られたりもした。今ではすっかり熱が冷め、むしろ「ケータイ国盗り合戦」に魂を奪われているが、コンセプトは同じだと思う。

気まぐれ郵便貯金の旅 ただいま3877局は1997年秋に自由国民社から上梓された旅行貯金関係の本で、その前の1995年にも日本縦断「郵便貯金」の旅を徳間書店から出している。旅行貯金で2冊も本を出しているのだから大したものである。

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この本の巻頭は「みなみ東北気まぐれ旅行貯金」で、編集者の宮下啓司氏とカメラマンの荒川好夫氏との気心の知れた三人旅だ。いずれも旅行貯金が大好きな面々で、示し合わせての書下ろしなのだろう。まだ残っていたオフ局と言われた、オフラインの手作業で貯金業務をする小さな郵便局を訪ねての気まぐれ列車の旅であるが、実に読みづらかった。
なぜなら、昔の話に次々に飛んで、いったいこの旅行が行われたのがいつなのか、さっぱりわからなかったからだ。
三回ほど読み直して、ようやく行中に出発日の97年6月9日の日付を発見したが、
「(旅行貯金を)1979年に始めてから…」
「貯金業務オンライン化は1984年にほぼ完了して…」
「国鉄本社を担当していた1971〜1973年ごろ…」
「1972年4月、鉄道ジャーナル誌に…」
「1973年に僕が毎日新聞を退社して…」
「1988年ごろに(旅行貯金を)ぼつぼつ始めて…」
などなどと、時系列があちこちに飛んでおり、いったい今がいつで何を言いたいのか、わからなかった。
2001年以降の脳梗塞発症後はこういう話が飛ぶ記述が多いが、このころからそうだったとは。

第二章の「郵便局とのおつきあい50年」は一転して読みやすい。郵趣に目覚めた中学時代の物語や、新聞記者として飛騨の山奥の郵便請負人(配達夫)を取材した記事の再録などは目前に髣髴するように鮮やかだ。郵便請負人の記事はスクラップブックで元記事を読ませてもらった記憶がある。特殊切手をシートで買っていたので、事務所のマンションを購入するためにその売却益が役だったと書かれているが、本人からも直接聞いていた。

第四章ではヤングの読者で7000局と1万局の旅行貯金をした猛者の話が出てきている。彼らも現在50歳を過ぎており、まだ貯金を続けているのだろうか。

本日7日から一般公開の<しばうら鉄道工学ギャラリー>の種村直樹コレクションには貯金通帳も展示されており、その情熱の一片を垣間見ることができる。



しかし全国24000局の完訪はまだ誰も成し遂げておらず、子孫に委ねようにもまともな子孫なら「あほらし」と金を引き出して終わりだろう。
際限なしに趣味に没頭するのはいかがなものかと思う。

  
| 読書 | 21:51 | comments(0) | - |


バス旅春夏秋冬 種村直樹著 中央書院 1997年
レイルウェイ・ライター種村直樹氏のルポを読み返している。
今回手にしているのは「バス旅春夏秋冬」である。主にバス・ジャパンや鉄道ジャーナルに寄稿した、バスを利用した旅のルポだ。

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おりしも、テレビでは路線バスがブームになっており、その嚆矢となったテレビ東京の「太川陽介と蛭子能収のローカル路線バス乗り継ぎの旅」が12月25日放送分で終了した。蛭子さんが70歳になり、体力的にかなわないとのことだが、それ以外にも蛭子さんの反応がもはや笑えないレベルで、早めの撤退は得策だったと思う。

先日は「気まぐれ列車だ僕の旅 九州・南西諸島渡り鳥」で離島を結ぶ船旅を読んだが、この「バス旅春夏秋冬」は国鉄終焉から90年代初頭までのバス旅行を記録している。鉄道がメインのレイルウェイ・ライターとしては異業種格闘技というところか。
今はすでに廃線になってしまったバスや鉄道、あるいはまだ新幹線が開業前の北東北や北陸地方の旅が描かれている。普及し始めた高速バス、最長距離路線は東京〜広島便で種村氏はそれに乗ったが、ほどなく東京〜博多便が開業した。このころ種村氏は50歳前後で、まだまだ体力も十分だったので、夜行バスもものともしていない。

驚いたことに、このころのバスはまだ喫煙がデフォルトで、ようやく禁煙「席」が出てきたころで、運転手も「なるべく喫煙は遠慮してほしい」とはいうものの、あちこちの席で煙がたなびいていたのかと思うとぞっとしない。

もちろんケータイ電話やましてやスマホは登場せず、乗客もカセットテープのイヤホンを耳に差していたのだろう(特に記述はない)。座席予約はネットでなくて窓口だ。
このようにバス旅の訪問先やバスの乗り方などに興味がわくよりも、背後にある時代性に興味が向いてしまった。それがちょっと古いルポルタージュの価値なのだろうか。

もっとも、70年もたてばさらに違う価値が生まれる著作だと思うけれども、30年程度の中途半端な年月はズレばかりが目立って、しばうら鉄道工学ギャラリーに「種村直樹コレクション」ができるけれども、著作をデジタル化して復刻したところで、読者はついてこないだろうし、中身に感動する人もいないだろう。

  
| 読書 | 18:38 | comments(0) | - |


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