CALENDAR
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
Amazon左








マウスコンピューター/G-Tune






MOBILE
qrcode
小西由稀の札幌おささる味手帖 〜飲・食・買のおいしい店〜
札幌を中心に活躍するフードライターの小西由稀さんの久々の新刊。
小西由稀の札幌おささる味手帖 〜飲・食・買のおいしい店〜」(財界さっぽろ)がオーストラリア出張中に届いていたので、ようやく紐解いた。

IMG_1410.jpg

まず、タイトルの"おささる"。この言葉は北海道弁に通じているつもりの私も知らなかったが、「押す」+「さる」で、ついつい押してしまう状態をいう由。

スマホがカバンの中でおささる。

のように使うらしい。
この場合の「おささる」は、読むと行ってみたいなあと心のスイッチが「おささる」。「飲まさる」「食べらさる」「買わさる」ということだ。

57の札幌の店が紹介されており、この数倍の店を訪れ、味わい、食材から背景から調べて一冊にまとめるのは相当な苦労があったと思う。

IMG_1411.jpg

私は札幌も函館も北海道はすっかりご無沙汰だが、小西由稀さんは私の地元の世田谷区にまで足を延ばして味覚を求めており、私の知らない店を教えてくれており、恐れ入る。

IMG_1412.jpg

あまたある札幌の飲食店だが、美しい写真と気の利いた文章で、どこの店も入りたくなる。そして極端に高い店はほとんどないし、あってもやはり「おささる」。

IMG_1413.jpg

そしておそらくは自分の地元にも「おささる」店はあるのだろう。それを見出していないか、見つける眼力(舌力)がないだけなのかもしれない。

既成のメディアでは、彼女のホームタウンの札幌主体の店の紹介にどうしてもなってしまうから、北海道以外の店はSNSで紹介されるのを期待したい。

  
| 読書 | 19:40 | comments(0) | - |


少年満洲読本 長與善郎著/日本の選択「満州国」ラストエンペラー NHK取材班著
朝鮮満洲旅行案内」を読んでいると、当時の朝鮮や満洲の暮らしぶりがどうだったのか、日韓併合や傀儡滿洲國の影響はどうだったのか知りたくなり、図書館で2冊の満洲関係の本を借りてきて読んだ。
1冊は昭和13年に書かれた「少年満洲読本」、
もう1冊は昭和末期のNHK特集を書籍化した「日本の選択7『満州国』ラストエンペラー」である。
まったく異なった視点で書かれた本で、両方読むととても参考になった。

IMG_9747.jpg

私も戦後育ちだから、学校の教科書レベルの知識しか持ち合わせず、それも日教組の教育なので、おそらく偏向していたと思う。さらに20歳下の若い女子社員は「韓国に謝らなければいけない」みたいなことを真顔で言っていたので、私よりあとの世代はどんだけ偏向教育を受けていたのかと驚いた。

満州国は今の中国東北部にあった国である。もともと中央政府の目が行き届かない地域で馬賊・匪賊が牛耳り、さらにロシアの権益も絡んでいた。昭和6年(1931)に満洲事変(柳条湖附近での南満洲鉄道の爆破事件)が起こり、というか起こし、翌昭和7年(1932)に日本の主導で満州国が建国され、昭和20年(1945)の日本の敗戦とともに満州国は消滅した。13年の短命だった。

少年滿洲讀本」は昭和13年5月という"ちょうどいい時期"に日本文化協会ならびに新潮社から刊行された本を徳間書店が復刻した。満州国の未来を支える少年たちに向けて書かれた、夢と希望にあふれる本である。

IMG_9748.jpg

教育者である松島公造氏が、自身の仕事と絡ませて中学2年と小学6年二人の息子、一郎と二郎を連れて満洲に旅行をする子供向けの小説である。現地では満洲で生まれ育った従妹の満洲子(ますこ)ちゃんが出迎え、四人で旅行をする物語だ。満洲のすみずみまで紹介する体裁なので、夏休み一ヶ月の旅行となった。観光記のみならず、満洲の気候・風土から、産業である農業・林業・漁業・工業・鉱業・石炭業などの現状と未来、交通、政治や治安、そして国民性などが、詳しく書かれている。
あの時代に生まれた満洲男(ますお)や満洲子という名前の人はかなりいたと思う。

IMG_9749.jpg

「少年満洲読本」は満州国になってから昔の中国の時代と比べていかに産業が発展し、貿易額が激増し、人々の暮らしがよくなったのかと解いている。日本は狭くて資源の乏しい島に人々がひしめきあっているが、満洲は(朝鮮や台湾を含めても)日本の何倍もの広さで、資源は無尽蔵。作物は育ち石炭・石油のエネルギーも潤沢にある。

満州国

満洲は国際社会から認められず、国際連盟にも加入できず、逆に日本は欧米が作ったこの連盟から脱退した。
「満洲事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、又国防と、満洲での権益を確り保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった」
「東洋にだって奴隷根性の腰抜け国ばかりいると思うのは間違いだ。実に日本にとっては切っても切れない因縁にある満洲、お互いにどっちの一つが仆れても生きてゆけないような一身同体の関係にある満洲を捨ててしまえと言うのは、とりも直さず日本に『死ね』というのも同じことだ」

と、父親の言葉を借りて自論を述べる。

松島一家は北満まで足を延ばし、民泊もさせてもらい、少年たちはすっかり満洲のファンになってしまった。


続いて読むのは戦後も戦後、昭和末期にNHK取材班によって書かれた「『満州国』ラストエンペラー」だ。つくづく昔のオレはえらかったと思うのは、この本のベースである1987年(昭和62年)に放送された「NHK特集ドキュメント昭和7"皇帝の密約"〜埋もれた最高機密〜」を録画しており、このビデオテープが残っていて番組を見返した。

IMG_9752.jpg

NHKがえらいのは、放送の何倍もの取材を費やしているのが本を読むとわかる。最高機密とは皇帝溥儀の通訳だった林出賢次郎氏がつけていた日記のことで、戦後40年経ってご遺族が公開に踏み切った。溥儀は最初は清朝が復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)し、再び清朝皇帝に返り咲くことを夢見ていた、見させられていた。

IMG_9754.jpg

満州国の建国には関東軍が深く関わっている。参謀の石原莞爾中佐らが編み出したものである。関東軍とは、日露戦争の勝利の結果、租借した中国の遼東半島と南満洲鉄道とその沿線を関東州と呼び、そこに設置された日本陸軍部隊だからこの名がある。

石原莞爾

満蒙(満洲と蒙古)は、資源の乏しい日本への供給地として、そして南下を企てるロシアの緩衝地として、開拓、あるいは占有が必須であった。そして事実上の占領を果たした。

満州国の政治も治安もすべて関東軍(日本)が握っており、皇帝溥儀を含めて政治も産業も関東軍の言いなりだった。「少年満洲読本」や映画を始めとした"夢を見させる"広報戦略もたくみに行われた。

溥儀

だが日本への資源の供給地としてだけで、ロシアの防波堤としてだけで満洲はあったのだろうか。日本の発展のためだけに満洲はあったのか。欧州諸国はアジアやアフリカ各地に植民地を持っていたが、単に資源だけが目的なら植民地でもよかったはずなのに、なぜ満州国という新しい国を作ろうとしたのか。「五族協和・王道楽土」というコンセプト立案や、皇帝溥儀を担ぎ出しての政治統制システムは誰がどうやって考えて実現したのだろうか。

満州エリアは当時の中国政府もあまり力が回せず、張作霖や息子の張学良らの馬賊・匪賊に牛耳られていたいわば無法地帯であり、傀儡であったとしても"ちゃんとした統治システム"が出来たのは良かったと思う。ただし、今の中国が文句を言うのは、他国の力でそれがなされるのがイヤだったからだろう。だが、日米安保条約のように治安も日本が守ってくれたし、インフラも日本が整備したのも事実である。ISIS(イスラム国)よりもよほどまともだろう。

「日本が悪」と考えている日本人は多いはずだが、むしろロシア(ソビエト)の日ソ不可侵条約を一方的に破っての侵略や、イギリスのアヘン戦争による対中(清)政策、あるいは中国がインドネシアの新幹線工事でした実現不可能な詐欺のような行為のほうがよほど悪だと思う。自分たちの権益のみだからだ。
言い換えれば、あの時代にしては日韓併合も満州国建国もまともな手段ではなかったか。

そして満州国が今もあったなら、あのエリアは今の何倍もの経済発展をしていたはずだ。それは日本が手を引いた北朝鮮を見れば明らかだし、ロシアが実効支配している北方領土を見ても、政治を日本がつかさどっていれば、もっと発展していただろう。

「五族協和」は五族つまり日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人がともに助け合って発展していこうというスローガンであり、「王道楽土」は王、つまり皇帝溥儀を中心として人民が幸福に暮らせるという理念だった。本当にそういう理想に向けて満州国の仕組みを考えていたのか、それとも甘言で中華民国や国際社会を欺こうとしたのか、私にはわからない。
しかし傀儡や欺瞞でその理想が出来上がるとも思えない。「満洲は日本の生命線」という、資源を搾取するための譎詐(きっさ)が「五族協和・王道楽土」だとしたら、企画としては出来すぎている。

オレオレ詐欺の新種が次々と出てきて「よく考えるなぁ」と思うが、満州国プロジェクトはそれ以上の詐欺だったのか。
いや、それだけではないと思うのだ。

  
| 読書 | 19:03 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<11> 昭和11年(1936)の旅行ガイド 旅順
続き
昭和11年三省堂から発行された「朝鮮満洲旅行案内」を読む。
内地から外地への旅行ガイドとして、また外地の地勢や産業を知る本として愛読されたようだ。
ほどなく日中戦争が始まり、さらに太平洋戦争が始まり、物見遊山の「旅行」はおおっぴらに出来なくなり、切符類も買えなくなったから、「日本が一番良かった時代」の残滓として往時を偲べる。

2009-2924.jpg

今回、満洲の入り口で、私の父が中学時代を過ごした旅順の項目を紹介する。日露戦争で甚大は犠牲者を出した場所として、このころから戦跡めぐりの地になっていた。
現在は中国の大連市旅順口区だ。

旅順
旅順は關東市制に基づく自治都市の一で、遼東半島の最南端に位し、南面には紺青の色鮮やかな渤海を控へ、背面は屏風を繞らしたやうな高丘に圍まれ、老虎尾半島と賞金盲置とによって抱かれた港灣は内陸深く入り込んで自らなる要害をなし、風光の明媚、氣候の温和なること州内第一の稱がある。{人口約三萬]

此の地は古く「獅子口」と呼ばれ、明時代になってから、南方から滿洲へ渡來する移民が多くなるに從って、船舶の寄港漸く繁く、水陸行旅の順路に當ったので「旅順」といはれるやうになったといふ。
天然の要害をなす此の地は、常に歴朝軍の根據地となり、高句麗はここを邊東に於ける策源地とし、唐は高句麗を破ってこゝに築城した。明代には金州の防備所となり、清代に入ってから、太宗は旅順の北四粁の水師營に屯營を置いて山東攻略の水師を動かし。また康熙帝もこゝに本營を段けて海陵の防備を巖にした。


日露戦争における旅順口閉塞作戦は有名で、ロシア海軍の海上輸送を閉鎖しようとしたが、3回にわたる戦いでも成功したとはいい難かった。

我軍の手に歸してからは、最初軍政を布いたが三十九年八月軍政署を廢して關東都督府を設け、同四十年鐵道業務竝に州外鐵道附屬地に於ける教育・衞生土木等の施設が滿鐵の管理に歸してからは、都督府は關東州内行政事務のほか、鐵道曾社の監督竝に鐵道線路の警務上の取締及軍事行政を統轄することとなり、更に武官制度から文官制度に革められ、現在の關東廳制となったのである。而して大正十三年八月一日關東州市制に基いて自治市として認められ。新市制の實施を見るに至った。
市街は中央を流れる龍河によって二分せられ、東を「舊市街(旧市街)」、西を「新市街」といふ。舊市街は主に商業區で、新市街には官衙・學校が多く、住宅區となってゐる。


映画やNHKドラマ「坂の上の雲」でも有名な203高地は西部にある。ここの攻略も多大な犠牲を払った。業務で行く人以外は戦跡めぐり、巡礼・鎮魂の地であったのだろう。

【舊市街(旧市街)】白玉山の東麓、教場溝川に沿うて長く漣り、大體(大体)旅順の商業區をなし、乃木町・青葉町・迎橋一帶が賑ってゐる。しかし商業は大連に奪はれて餘り振はない。日滿混住であるが、滿洲國人は教場溝川の上流に多い。また黄金山下の東港に面して船渠・兵營などがある。

【新市街】龍河に臨む將軍山の西、湖水のやうな西港に面し、關東廳・博物館・工科大學を始め、多くの諸官衙・學校及それら關係者の官舍から成り、其の主な建物はロシヤ時代の建設に係るものである。街路は極めて整然、兩側に植ゑられたアカシヤの姿もゆかしく、附近は頗る閑靜である。

【博物館】新市街にある。滿蒙の物産工藝品及各地の參考品を陳列し、滿蒙の現況・風俗等を知らうとする者の好資料。これに隣る考古館には滿洲竝に支那各地の考古的資料の逸品が陳列されてゐる。

【戰利記念品陳列館】舊市街の東端にある。もと露軍下士集會所であった建物を其のまゝ利用したもので、彈痕が殘ってゐる。當館には、當時使用の軍器及軍服、戰前戰後の砲臺模型、防禦物の構造解説、攻圍戰實況寫眞、參加諸將軍の肖像等が陳列されてゐるから、戰蹟巡覽の人は是非見ておくのが必要且便利である(入場料大人一〇錢、團體二〇名以上半額、學生・軍人・小人無料)。


旅順駅前の写真。馬車が1台止まっている。

旅順駅前.jpg

旅順観光は今も戦跡めぐりと言っても過言でないので、その部分を紹介します。

旅順戰跡巡り
日本帝國の國運を賭した日露戰役、そして其の戰爭の勝敗を決すべき旅順の攻圍戰は、いかにしても勝利の榮冠を我軍に收めなければならぬ戰であった。されば忠勇なる我戰士は、言語に絶する慘憺(さんたん)たる辛苦を嘗めること約半歳、遂に難攻不落と稱せられた旅順の要塞を陷落せしめたのであった。
半島の腥氣(せいき=なまぐさい臭い)徐ろに去って茲に三十年、旅順の山河は今麗かな平和の光に包まれてゐるが、一度比の地に遊んで戰蹟を訪ね、そゞろに常時を偲ベぱ、まざまざと當時の激戰の樣が目に浮んで、洵(まこと)に感慨無量のものがある。そして訪ふ人のいづれもは唯々戰沒將士の英靈に心からなる感謝を捧げずにはゐられない。


【閉塞隊員埋葬地】驛前から白玉山に登る坂路の途中、右方の山麓にある。第三回港口閉塞に戰沒した我勇士の屍をロシヤ側で手厚く葬った所で、誠に好個の記念地である。今はこゝに櫻樹を植ゑて「櫻山公園」と稱している。

旅順白玉塔.jpg

【白玉山納骨祠と表忠塔】白玉山は旅順の新・舊兩市街の中間に挾まる孤立峰で、高さ一三六米餘。もとは半永久的の防禦工事を施した堅固な砲臺があった。頂上は瓢形をなし、其の北方の膨らみに、南面して納骨祠が建ち、南の膨らみには表忠塔が巍然として聳えてゐる。「納骨祠」には日露戰役に戰沒した我忠勇なる陸・海軍の犧牲者二萬二百餘の遺骨が納められ、毎年春・秋二季に祭典が行はれる。

白玉山塔。

旅順表忠塔-5.jpg

表忠塔は乃木・東郷兩將軍の發起によって建設されたもので、其の規模の宏大なること我國建築界屈指のものといはれ、圓壔形(円筒形)で高さ六六米餘、頂上は砲彈形の尖塔をなし、千古不滅の燈明臺となってゐる。一度此の塔上に立って四方を望めば、半島の全景は悉く雙眸に集まり、一大パノラマの觀がある。即ち南面すれば老虎尾半島の尖端 威遠砲臺と黄金山砲臺とが作る狹い港口を眼下に俯瞰し、當時幾たびかの港口封鎖に我海軍の決死隊が活躍した旅をまのあたり見る心地がせられる。北面すれば、納骨祠の背後にあたって、東方から順次西方に向って白銀山・東鷄冠山・望臺・二龍山・松樹山・高崎山・海鼠山・爾靈山等いづれも當時の激戰を物語るかのやうに蟠ってゐる。

【爾靈山(二〇三高地)】新市街の西北約四粁、其の名の示す如く標高二〇三米、旅順諸山中の最高點である。山麓まで馬車を通じ、登路は完全に出來てゐるが、かなりの勾配である。 山頂に立って四顧すれば、新市街はもとより、灣内の光景を一眸の裡に收め得ベく、此の高地の攻略が當時我軍にとっていかに重要であったかを思はしめるものがある。

實に我軍はこゝを占領するがために、旅順攻圍戰中最大の犧牲を拂ひ、尊き肉彈を捧げたのであった。こゝは開戰當初には何等の設備もなく、高崎山陷落後、急に堅固な半永久的防備が施されたもので、第一回總攻撃の時には我軍は未だ本高地に達せず、遲れて九月、第十五連隊長香月中佐の手兵によって陷落せしめられたが、僅か數時間で再ぴ敵に奪還された。第二回總攻撃には除外、第三回總攻撃には否が應でも陷落せしめねばならない必要に迫られ、第一師團に代った新鋭第七師團の十一月二十七日から九日間に亙 強襲で漸く占領し得たのであった。
此の高地攻撃に失った我が士卒の數は七千五百、實に旅順攻圍戰戰沒者總數の約十分の一を失ったのに見ても、いかに苦戰であったかが想像される。其の流血と死屍とに蔽はれた山頂は今なほ雜草も生ぜず、當時の塹壕の跡もありありと見えて、そゞろに回顧の涙を禁じ得ざるものがある。
山頂には乃木將軍の有名な爾靈山之詩、
「爾靈山險豈難攀、男子功名期克難。鐵血覆山山形改、萬人齊仰爾靈山」
を彫した碎が屹然として立ってゐる。また北方山腹の斜面松林の中には「乃木保典(乃木希典将軍の息子)戰死の場」と刻んだ碑がある。共に英魂を千古に傳ふるものである。


旅順203高地.jpg

爾靈山(にれいさん)は高さが203mあったので203(にいまるさん)高地と呼ばれた。

【東鷄冠山北堡壘(堡塁)】驛の東北約五粁にある。近世式築後法によった永久砲臺(砲台)で、旅順背面の防禦砲壘中典型的のものである。
我軍は第一回總攻撃以後、正攻法を採って坑道作業を行ひ、第二回總攻撃の時には辛くも此の外壁ペトン掩蔽(えんぺい=おおい隠す)部の一部を占領し、爾後其の掩蔽部穹窖(きゅうこう=弓形の穴)内に於て彼我十數尺の間に對峙し、息づまるやうな肉薄戰を演じたのであった。第三回總攻撃には胸墻(きゅうしょう=胸の高さほどの盛り土)部の爆破の餘波を受けて無慘にも我突撃隊は其の掩蔽下に生埋めとなり、第二の突撃隊は戰友の埋沒を見殺しにするに忍びず、こゝに奮ひ立って遂に最後の勝利を得たのであった。此の堡壘を訪れて其の涙ぐましい凄慘な戰話を聞く者、誰か無限の感慨なきを得よう。
なほ堡壘後部掩蔽部の咽喉部に、我戰蹟保存會によって建設されたコンドラチェンコ將軍の碑がある。同將軍は我乃木大將に比すべき敵の名將で、十二月十五日軍議中我二十八珊砲榴彈のために戰死したもので、ために露軍は士氣大いに沮喪(そそう=氣力がくじけて勢いがなくなる)し、爾後二旬を出でずして開城となったのであった。

【望臺】北堡壘の背後に聳え、標高一八四米、東方戰線中の最高峰で、西部戰線の最高陣地二〇三高地と相對してゐる。攻圍戰最後の活劇場で、山頂に今なほ敵の使用した海軍砲二門を留めてある。こゝは櫻井(忠温)中尉が重傷を負うて轉落した所で、名著「肉彈」に書かれてゐる現場である。

【ニ龍山堡壘】望臺の中腹を拔け、更に少しく進んだ所にある。永久堡壘中最大のもので、鐵道線路を隔ててクロバトキン堡壘と相對し、我軍の後方連絡を絶つに最も有利な地を占めてゐる。第一回總攻撃後、二龍山攻撃に支障となる鉢卷山を占領し、第二回總攻撃を經、第三回總攻撃に大爆破を行ひ、辛くも十ニ月二十九日にこれを占領したのであった。此の戰に敵の殘兵僅かに三名であったのに見ても、いかに激戰であったかが知られる。


旅順ニ龍山.jpg

【松樹山堡壘】東部諸堡壘中最南端に位する永久堡壘で、龍河流域の平地を隔てて西部諸堡壘中の椅子山・案子山堡壘と相對してゐる。我軍は第一回總攻撃の結果により正攻法に着手し、第三回總攻撃に於いて、堡壘爆破が理想的に行はれて、十二月三十一日遂に陷落せしめたのであった。背後に當る松樹山補備堡壘は、白襷隊の攻撃で有名な所である,

【水師營】松樹山の北西平地にある。旅順が遂に陷落し、 一月五日、我攻圍軍司令官乃木將軍と露國關東軍司令官ステッセル將軍とが會見した所で、當時使用した民家と有名な棗(なつめ)の樹は今もなほ戰蹟保存會の手によって保存されてゐる。

旅順水師営.jpg

【露國忠魂碑】市外小案子山の東麓にある。我政府が建立したもので、長さ約一五〇米、幅約四〇米の煉瓦塀内には露國戰沒者一萬四千六百三十一の英靈が眠つてゐる。これは實に敵にも厚き我武士道の精華を世界に示したものである。


ロシア軍のステッセル将軍と乃木大将との水師営の会見は、歌にも歌われて有名だが、軍の施設ではなく民家だったようだ。武士道精神からロシア軍への忠魂碑を立てたとのこと、今も残っているのだろうか。

〔視察順路〕


旅順の戰蹟巡りは一般に馬車及び觀光バスによるのが普通である。馬車は四人までは乘れるが、窮屈であるから二人乃至三人が適當である。觀光バスは七人乘であるが現在は二臺のみである。
馬車・戰蹟案内者等の雇傭は旅順驛長まで申出られるのがよい。案内料は六人迄ニ圓、十人迄三圓、二十人迄三圓半、二十人以上は四圓である。なほ滿洲戰蹟保存會では驛前に案内事務所を置き、現地には説明者を派して無料奉仕してゐる。


バスが7人乗りで2台しかないというのがかわいい。

<了>

さて、
祖母の実家から出てきた三省堂の「朝鮮満洲旅行案内」はすでにカビが生えているような状態だった。旧字旧仮名遣い小さい文字で読みにくく、OCRもまともに判読しなかったが、私にとっての主要な部分はデジタル化できた。

あの時代が「良かった」と思うのは幻であり、昭和末期のバブル時代以上にバブルだったと言えよう。
まだ、紹介していないページのほうが多いのだが、とりあえず「朝鮮満洲旅行案内」の解読はいったん終りにする。

制作の苦労と違ってほとんど「いいね!」も付かなかったし、読者ウケしなかったと言うことです。おそまつさまでした。

  
| 読書 | 14:34 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<10> 昭和11年(1936)の旅行ガイド 大連
続き
昭和11年三省堂発行の「朝鮮満洲旅行案内」を読み進める。
満洲概観に続いて、満洲の首都である新京(今の長春)や大都市の奉天(今の瀋陽)は当然紹介されているが割愛し、幼い父が住んで、何度となく会話に登場した大連を読む。
ここで紹介する昔の写真は主に絵葉書です。

大連はロシアが開発した大規模な港湾都市で、内地との船が発着する満洲の玄関口であった。満洲は日露戦争の勝利によって権益を得た租借地で、厳密には満洲ではないが、政治システムは満洲と一にした。

朝鮮満洲旅行案内-40大連地図.jpg

大連
大連市は極東に於ける自由港として、叉 連京線(滿鐵本線)の起點として、歐亞連絡の要衝に當り、同時にまた新興滿洲國の表玄關をなしてゐる。
[人口約三〇萬]

今を距る三十數年前の此の地は、約十七戸の支那部落 東青泥窪(トンチンニーリー)約二十戸の西青泥窪、十除戸の漁村 黒咀子(ヘイチユイジ)及 一二、三戸の西崗子が山神廟や龍王廟を取卷いて散在してゐた荒地に過ぎなかったが、極東への準出を頻に企ててゐたロシヤは、一八九八年(明治三十一年)に締結した露清條約によって、極東の不凍港として最初に此の地を選定し、市名をダルニーハ(「途方」の義)としてこゝに市街の建設に手を染めたのであった。
まづ第一期計畫(計画)として一千萬ルーブルの巨費が此の地に注入され、更に三千萬ルーブルの巨費を投じた第二期計畫に進む緒に當って、かの日露戰役が勃發し、ロシヤは都市計畫の一端を實現したばかりで、其の野望を遂げることが出來なかったが、戰後我國がこれを繼承して、ロシヤが最初計畫した以上の壯麗な大都市に完成せしめ、以て今日の繁榮を見るに至ったものである。


30年前(20世紀初頭)の大連は辺鄙な田舎だったようだが、ロシアが開発し、さらに日本が手に入れた。フランスのパリを模範にしたそうで、凱旋門のあるエトワール広場が大広場で、メインストリートのシャンゼリゼ通りが大山通ということだろう。

【大連港】汽船が大連埠頭に着くと、まづ第一に旅客の眼を驚かすものは埠頭設備の規模の宏大なことで、東洋第一、恐らくは世界第一といっても過言ではない。
全長五、〇〇〇米、水深八米乃至一三米、同時に三千噸乃至二萬噸級の船舶四〇隻の繋船能力をもつ第一より第三に至る大岸壁、工費七十萬圓、收容能力五千人の船客待合所、埠頭構内全面積約六二一萬平方米のうち三九七、五〇〇平方米を占める七七棟の倉庫及上屋、約三六七、〇〇〇米を占める大豆の野積場、其の他豆油・重油及石油其の他危險品揚積用としてのニ本の寺兒溝棧橋、鑛石其の他撒貨物荷役のための濱町埠頭、戎克(ジャンク船)による貨物揚積のための入船埠頭、更にこれら埠頭に於ける諸般の事務を統轄する埠頭事務所の巨大なる七層樓の建物等を見れば、いかに大連港の經濟的價値が重大であるかを知ることが出來よう。



實に大連港は、物資無盡藏といはれる大滿洲帝國の一大關門であり、從って大連港の消長は即ち滿洲國の消長を如實に示すもので、また滿洲に於ける幾十萬の邦人が活躍の實際を反映してゐるところのものであると云はなければならない。
今大連港の貿易額を見るに、開港當初の明治四十一年の輸出入總額は七〇萬七千瓲であったのに對し、昭和七年は約其の十一倍を示し、毎年平均三二萬瓲の増加率を示してゐる。輸出品の主なるものは、滿洲の特産たる大豆・豆粕・一旦油・高粱・石炭・鐵及銀製品・柞蠶絲等で、輸入品の主なるものは麥粉・綿織物麻袋・鐵及鋼・機械等である。


大連埠頭

大連港の壮大さが伝わってくる。しかし旅行ガイドに必要な埠頭ターミナルの施設(食堂や売店、休憩設備など)についての記述がないのが気になる。

【市街】大連市街は、ロシヤが嘗て範を佛京巴里にとってプランを樹てたものを我國が大體踏襲したもので、大・小七箇の廣場を中心に、舖裝された多數の道路は蜘蛛巣状に八方に放射し、街路にはすべて煉瓦浩りの宏壯な建築が立ち竝び、極めて清潔で、初夏の候ともなれば、アカシヤの竝木は白い花房を垂れ、すがすがしい芳香を漂わせて心持よく、誠に「東洋のパリー」と稱せられるのも決して過言ではなく、新興氣分の旺溢した近代的の都市美を遺憾なく發揮してゐる。

行ったことがないが大連と言えばアカシアの並木だ。清岡卓行の芥川賞受賞作「アカシアの大連」で一躍有名になった。何年も前に文庫本を買ったが、途中に栞を挟んだままになって、読んだところも全部忘れている。



【大廣場】中央には滿洲に於ける距離の基點を示す「里程標」が建てられ、それを取卷いて緑の芝生があり、花壇が設けられ、常緑樹が植ゑられ、大廣場自身が美しい公園をなしてゐる。大廣場の周圍には民政署・市役所・警察署・遞信局・英國領事館・「ヤマトホテル」、正金・朝鮮及中國銀行等の壯大な建築が聳え立ち、少し離れて赤旗飜る蘇國領事館がある。

大連ヤマトホテル.jpg

また「ヤマトホテル」の背後には巨城のやうな大連醫院が聳えている。かやうに大廣場は、地形的に市の中心をなすばかりでなく、政治的にも經濟的にも市の中心となって居る。なほこゝを中心に、埠頭方面への「山縣通」、日本橋を經て大連驛・露西亞町方町への「大山通」、滿鐵本社前を寺兒溝方面への「東公園町通」、西廣場を貫き常盤橋を經て西部大連への「西通」など、合計十本の大街路を放射して、大連市交通の核心をもなしてゐる。


大連と言えば大広場(今の中山広場)と呼ばれる駅前の巨大ロータリーだ。ヤマトホテルは現存しているそうだ。

大連広場カラー.jpg

内地にはない、広い道路、広い広場、巨大な石造りの建物は日本人の目を驚かすに十分だっただろう。

「大山通」は附近の伊勢町と共に大連市の商業區で、これと交叉してゐる「浪速町」は大漣銀座の稱があり、大商店・飮食店・映畫館等が軒を列ね、殷盛な繁華街をなしてゐる。また近くの「奧町」には滿州的色彩の濃い支那風呂・支那芝居・支那料理店などがあって、滿洲情緒を漂はしてゐる。



大山通を出外れて日本橋を渡ると「北大山通」がある。此の一劃はロシヤが建設した當時の遺物たる「露西亞町」で、海岸に出ると戎克(ジャンク船)の碇泊に當てられてゐる入船埠頭、俗にいふ露西亞町波止場がある。戎克によって蓮ばれた物資が石疊の濱に陸揚げされ、群り寄った戎克の檣頭(しょうとう=マストの先)には紅旗が飜り、海上の船からは騷がしい中にも特有の階調あるメロディーが傳はるなど、情趣豐かな滿洲氣分を漂はせてゐる。
此の町にある「北公園」は露治時代からのもので。兒童の遊園に適してゐる。大廣場から西通りを西に向って行くと西廣場を過ぎ、常盤橋に達する。「常盤橋」は日本橋・港橋と共に近代的の陸橋で、市の五方面から通ずる電車の交叉點に當り、瓦斯・電氣株式曾社・市營市場・乘合自動車營業所・漣鎖商店街など、生活に須要な機關はすべて此の一角に集まったかの觀があり、西へ西へと進展しつつある大連は、將來こゝが大大連市の中樞となるのではないかといはれてゐる。



「連鎖商店街」は資本金百五十萬圓の合資會社で、總延坪一萬二千坪を以て二百に餘る各店舖は協同作業を以て仕入・賣出をなし、各自負擔單價の輕減と效果の増大とを圖る組織で、大連の一つの誇りとされてゐる。

連鎖商店街は直訳すればチェーンストアだけれども、むしろショッピングセンターだったのではないかと思える。

また附近には中央公園・電氣遊園がある。「中央公園」はもと西公園といひ、露治時代には猛虎を飼養してゐたので、「虎公園」とも呼ばれてゐたが、最近現稱に改められた。現在は常盤橋の南から緑山にかけて五十萬坪に亙り、其の間に山あり、谷あり、池あり、これ等を綴って幽邃(ゆうすい=奧深くて物靜か)なる森林がある。

園内の高臺に聳える忠靈塔は日露戰役に於げる蓋平以南の戰死者四千の遺灰を祀り、毎年五月と九月とに盛大な招魂祭が行はれる。なほ園内には觀衆三萬を收容し得る滿鐵・實業兩野球グラウンドを始め、弓場・馬場・庭球場等各種スポーツ機關が備ってゐる。

「電氣遊園」は有料公園で、メリーゴーラウンド・植物温室・小動物の檻・圖書館等も備り、園の高臺から俯瞰すれば大連市は一眸の裡に聚まり、また櫻花の名所として知られる。



電氣遊園から市電で西へ進むと「西崗子」がある。こゝは滿洲下層民にとってまたとなき民衆娯樂地で、梨園(劇場)・書館(妓樓)はもとより、寄席・見世物小屋・奇術さては覗きからくり等、安價な享樂の慾望を充たす機關がみな備って、特異なる滿洲情緒を濃厚に現してゐる。特にこゝで興味のあるものは「露天市場」である。俗に小盜兒(ショートル)市場ともいはれ、こゝから盜難品の出ることがあり、日本人と支那人との生活程度の大きな差から生れた交換經濟の奇現象が見られる。なほこゝのほか、全市街中滿洲國人(支那人)の大集團をつくってゐるところは寺兒溝・千代田町附近、奧町監部通 等で、強い民族的色彩を現してゐる。


大連の現在の地図に、冒頭の当時の地図を重ねるとこちらのようになった。埠頭は変わっていないようだが、北部の埋め立てが進んでいる。また市街地の公園も住宅に代わったりしているようだ。

大連新旧地図.jpg

【大連西部】大廣場を中心として東部大連を完成してしまった市域は、更に西へ西へと翼を延ぱし、今や光風臺・桃源臺一帶の文化住宅を連ねて南端老虎灘へまで進出し、西部は聖徳街と竝んで山寄りの譚家屯以西の町々が生長し、大正廣場から馬蘭河を渡って臺山屯の工業地區へまで横がり、臺山の慨をめぐって次第に別莊地星ケ浦に迫ってゐる。

【星ケ浦】大連近郊第一の勝地として知られ、其の女性的な風光は瀬戸内海を思はせるものがある。市の西南四粁餘、市内電車は此處まで延びてゐる。後方に大連富士を負ひ、前は繪のやうな數箇の小島の散在する群青の海に臨み、十五萬坪のゴルフリンクや三十三萬坪の遊園地があり、園内景勝の地にヤマトホテルの別莊がある。海岸には波に洗はれた小石が白く美しく敷かれ、理想的な海水浴場を形づくってゐる。




星ケ浦は海に面した一大リゾート地だったのだろう。
大連に暮らす人々は、おそらく内地よりも豊かで、写真や話を聞けば聞くほど満洲への夢が広がったと思う。

続く

  
| 読書 | 17:46 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<9> 昭和11年(1936) 満洲概観
続き
昭和11年に三省堂から発行された「朝鮮満洲旅行案内」を読む。
朝鮮の小さい都市は割愛し、鉄路は新義州から鴨緑江の長い橋を渡って滿洲の安東(今の丹東)に着く。

2009-2924.jpg

滿洲帝國概觀
滿洲帝國は、亞細亞大陸の東北、東經一一五度二〇分から一三五度二〇分、北緯三八度四〇分から五三度五〇分の間に亙り、南東部は鴨緑江及圖們江によって朝鮮に境し、東は烏蘇利(ウスリー)江を挾んで蘇國(ソビエト)沿海縣に漣り、北は汪洋たる黒龍江を隔ててシべリアの雪原に對し、西は察哈爾(チャハル)・外蒙古の沙漠に接し、西南は萬里の長城を境として中華民國河北省に對し、南は黄海及渤海の海灣に瀕してゐる。面積一、四一六、〇九二方粁(關東州を除く)、日本内地の約三倍、我國全土の約一・八倍に當ってゐる。




日本本土の三倍の面積で資源も潤沢にある滿洲の形は、羽を閉じた蝶が右を向いて日本本土に止まろうとしていると称する人がいる。大連が尻尾だ。

【地勢】滿洲國は、其の形状略ゝ(りゃくりゃく=だいたい)不規則な四邊形をなし、共の四邊にはそれぞれ大・小興安嶺、長白の諸山脈及渤海・黄海の海灣を繞(めぐら)し、内部には遼河・松花江兩流域の大平原を展開してゐる。

【氣候】滿洲國は緯度の上から云へば、我國の東北・北海道と大差なく、歐洲の中部及南部の一部に當ってゐるけれども、地勢が高原または廣漠たる大平原から成り、海洋に接する地域が少いため、氣候は大陸的で、寒舖の差が著しい。けれども内地人が一般に考へてゐるほど凌ぎ難いものではない。
夏は最高平均温度、大連二八度、奉天三〇度、新京二八度九、ハルピン二八度六に上昇するが、夜は急に涼しくなるので割合に凌ぎやすく、冬の最低氣温は、大連攝氏零下一九・九、奉天三二・九、新京三六・〇、ハルピン四〇・〇、滿洲里五〇・一、海拉爾四九・三、延吉三七・一、依蘭三六・四(以上のうち新京は二月、他は一月)であるが、高低兩氣壓が西から東へと三、四日間に交代するところから所謂「三寒四温」を生じて氣候を和げる。殊に滿洲は家屋が悉く煉瓦造りで、窓は二重窓になって居り、且暖房裝置が完備してゐるから、どんな住宅でも室内に居れば春のやうに暖かである。
なほ滿洲の氣候の特徴ともいふベき點は、雨雲の量が非常に少く、雨季・乾季の兩季節の別が甚だ著しいことである。南滿洲に於ける一年の總雨量は約六〇〇粍で、日本の半ばにも及ばず、それも六・七・八月の三箇月に其の四分の三が降って、殘りの九箇月に殘餘の四分の一が降るのである。此の現象は北に行くに從って劇しく、蒙古に近づくときは更に一層甚だしい。從って其の乾燥度は極めて著しく、殊に家屋の構造と冬季の暖房とによって更に一層強められる。また滿洲は蒙古から吹き滋られる細塵が多く、三・四・五月頃は殊に甚だしく、時に黄塵萬丈天日ために晦くなることが屢ゝ(しばしば)ある。




新京は滿洲の首都で今の長春である。人口は次に示すように「よくわからないが3100万人くらい」ということから、このエリアの戸籍も十分でなく、政治もきちんと浸透していなかったことがわかる。

【人ロ及住民】滿洲國の人口は未だ正確な統計は出來ないが、概略三千一百萬人と註せられてゐる。而して其の住民の種類を大別すると固有族と外來族との二種となる。固有族は更にこれを分けると、滿洲人・蒙古人及ツングース族で、外來族は支那人(漢人種)・朝鮮人・日本人・ロシヤ人等である。これら諸族のうち最も多數を占めるのは支那人で、全人口の約九〇%を占め、滿洲人・蒙古人・朝鮮人これに次ぎ。日本人は二〇萬餘といはれてゐる。これらの民族は大體混住してゐるが、主として日本人は鐵道沿線に、朝鮮人は東海・間島(かんとう)地方に多く、蒙古人は漢人種に壓迫されて西方に退きつゝある。またロシヤ人は舊北滿鐵道沿線に多い。而してこれらの諸民族は各ゝ特色ある風俗・習慣を持ってゐるので、放行者の感興を引くものが少なくない。

【政治】滿洲帝國は康徳元年三月一日帝制を實施するに當り、從來の政府組織を廢して新に政府組織法を公布した。それによれば、皇帝の下に參議府・立法院・國務院・法院及監察院が設けられ、參議府は皇帝の諸詢機關、立法院(議會)は法律及豫算の審議機關である・國務院(内閣)には民政・外交・軍政・財政・實業・交通・司法・文教・蒙政の九部を置き、長官は大臣と呼ばれる。法院は司法機關、監察院は監察及審議機關で、それぞれの任務を負うてゐる。

《政府統治組織一覧表》

滿洲 政府統治組織一覧表

政府組織は皇帝を含めてすべて日本が握っていた。これを悪い意味に捉える人が多いが、人口も把握できていないエリアに政治や治安まで含めて日本が面倒を見てやると捉えることもできる。上から目線である。

【行政區分】 滿洲國政府は康徳元年十月十一日敕令を以て省公署官制改正を公布し、從來の吉林・奉天・熱河・黒龍江の四省を廢し、新に奉天・吉林・龍江・濱江・熱河・錦州・安東・三江・間島・黒河の十省を新設して民政部に屬せしめ、更に興安嶺總署を改組して蒙政部となし、興安省を四省に分割して蒙政部に屬せしめ、同年十二月一日からこれを實施することとなった。これは從來の地方行政機關がやゝもすれば一箇獨立の政府を形成して民衆を搾取し私的勢力の増大を計った舊弊(旧弊=古い悪い習慣)を排除し、眞正なる地方行政の實を擧げんとするものである。

政府の目が届かないエリアだったため、張作霖のような馬賊が牛耳っていた。ISISみたいなものだったか。

【産業】廣袤(こうぼう=幅と長さ)幾千里の沃野、千古斧銊(せんこふえつ)を入れざる大森林、殆ど無盡藏といはれる地下埋藏物、これら豐富な天然資源はいかに滿洲國の産業の將來が有望であるかを物語ってゐる。而して今後これら資源の開發には日本の援助を必要とすることは言を俟(ま)たない。

【農業】滿洲國は農業國で、住民の八割以上は農民であり、貿易額の約八割は農産物及其の加工品である。農産物の主なるものは大豆で、世界大豆産額の六割以上を占めてゐる。これに次ぐものは高粱(こうりゃん)・粟・玉蜀黍(とうもろこし)・小麥等で、また陸稻・水稻の産額も看過出來ない。なほ近年は從來の大豆等の穀物を主體とする單一農業より漸次多角的農業に轉向し、南滿には棉花・果樹・落花生等の、北滿には亞麻・ホップ等の栽培が行はれてゐる。
全國の可耕地面段は三、三六〇萬陌(ヘクタール)、總面積の二八%に當り、其のうち既耕地面積は約一、五八八萬陌で、總面積に封して一三・五%、可耕地面積に對し四六%に過ぎない。

【畜産】滿洲の農民は役用として二、三頭の牛・馬・驢(ロバ)を飼養し、又、豚・鷄を飼ふことを常としてゐる。從って農民は家畜飼養に勝れた技能を持ってゐるが、家畜の質はあまりよくないので、滿洲國政府は種々の施設をなしてこれが改良にカを注いでゐる。
現在滿洲國に於ける家畜の概數は、馬二七〇萬頭、騾(ラバ)八〇萬頭、驢(ロバ)五七萬頭、牛二〇〇萬頭、羊四〇〇萬頭、豚八〇〇萬頭である。

【林産】滿洲國の森林地帶は松花江・牡丹江・圖們江上流遲滯一帶竝に鴨儿勝渾河上流一帶、及北滿廣軌線の海林地方・興安嶺地方等で、其の面積は滿洲全土の約三分ノ一を占め、立木蓄積量は一五〇億石とといふ豐富さで未だ斧銊(ふえつ=オノとマサカリ)を入れない密林もある。樹種も極めて多く、已(すでに)に知られたもののみでも約三五〇種を超え、有用樹種は針葉樹八、濶葉樹二一種である。


豊富な手付かずの資源。狭い日本からそれは喉から手が出るほど欲しかった。当時は欧州諸国も同じ考えを持ち、アフリカやアジアに多くの植民地を抱えていた。しかし日本は満州国を独立した国家として作り上げた。

【鑛産】滿洲國の鑛産は未だ完全な踏査が行はれてゐないが、現に發見せられたところだけでも既に二千筒所を突破してゐる。鑛物は金屬鑛物・輕金屬鑛物・非金屬鑛物等多種に亙ってゐる。滿洲に於ける重要鑛産物埋藏量及其の採掘量を示せば次の如くである。

鑛物名   埋藏量   採掘量
鐵    一二億瓲  一〇〇萬瓲
石炭   四八億瓲  七〇〇萬瓲
油母頁岩 五四億瓲  一四〇萬瓲
菱苦土鑛 四億瓲   五・五萬瓲
耐火粘土 一億瓲   五萬瓲
金鑛(五〇億圓と推定される)

【水産】滿洲國は海岸線が少いため海産物には見るべきものがないが、それでも淡水漁業は盛大で、河川・湖沼等の漁獲高は相當に多い。鹽(塩)は大豆・石炭と竝んで滿洲に於ける重要産物の一で、大同二年其の産額は關東州及滿洲國内を併せて一〇億斤を超えてゐる。


旅行ガイドにしては満洲の資源についての記述が多く、そちらの魅力が強く出ている。このあと、安奉線に沿って満洲の奥深く入っていく。
内地から満洲へのルートは、
関釜連絡船で朝鮮に渡り鉄道で北上して安東から入る、
大阪・神戸から船で大連に入る、
朝鮮の東側、清津、羅津へ敦賀や新潟から船で渡り、図們から入る

など、大きく3つのルートがあった。

続く

  

| 読書 | 19:00 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<8> 昭和11年(1936) 平壌(へいじょう=ピョンヤン)
続き
昭和11年三省堂発行の「朝鮮満洲旅行案内」を読む。京城(今のソウル)から北へと進み、途中のいくつかの小都市は飛ばして平壌に進む。ピョンヤンでなく<へいじょう>である。

平壌は、現在は北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の首都であるが、当時は朝鮮は一つであり日本が統治していた。平壌は北鮮の主要都市であり、北朝鮮とか首都とかではなく、日本の外地の大都市だった。

今、北朝鮮の観光は制限されているとか実はひそかなブームとか言われているが、当時は普通に観光が出来た。それはよい時代たったと思うし、産業も文化も日韓併合後は劇的に改善されていた。

朝鮮満洲旅行案内-24-平壌地図.jpg

平壤
京城から二六〇・七粁。大同江は其の南東を流れ、牡丹・乙密の二臺が北東を擁し、市街の大半は其の山腹に倚(よ)ってゐる。遠望した市街美は朝鮮第一といはれ、翠緑深い高臺を背景とした浮碧・練光・大同の高閣が巍然(ぎぜん)と聳え、楊柳の煙る間を洋々と流れる江水に樓影を浮べ、其の間を織るやうに去來する大小の帆影、さながら一幅の活畫である。
平壤の名は朝鮮建國神話の舞臺として著れ、檀氏が都して以來、箕子(きし=中国殷王朝の政治家)・衞滿(えいまん)・朱蒙(ちゅもん、高句麗の初代王、東明聖王)などの徒が幾回か此の山紫水明の地に興亡盛衰の跡を留め、叉、秦・漢・隋・唐から、宋・元・明・清に至るまで征戰攻伐の巷と化したことも少くない。文祿の役には小西行長が敵使に欺かれて全軍を擧げて京城に退き、又、日清の役には大いに敵軍を撃破したなど、史上に名高い所である。
今は西朝鮮第一の商業地となり、農産物の集散が盛で、附近は石炭・鐵の埋藏が多く、陸軍兵器支廠・製糖工場・電氣工場等があって工業都市としても知られてゐる。
{人口約一四萬七千]




平壌は歴史ある都市だった。路面電車も走っていた。石炭や鉄の埋蔵が多いと書かれており、最近も中国などに輸出していたが、経済制裁によっておおっぴらには輸出できない。

〔市内遊覽順路〕驛(電車又は自動車)〜平壤神社前〜(以下徒歩)〜七星門〜博物館〜乙密臺〜箕子廟〜玄武門〜牡丹廟〜永明寺〜お牧の茶屋〜浮碧樓〜清流壁〜(大同江を屋形船にて下航)〜大同門〜(上陸徒歩)〜練光亭〜(徒歩)〜妓生學校〜(徒歩又は電車)〜驛

大同江を屋形船で下るといった、今の平壌の状態では信じられないようなのどかさである。"屋形船"でなくてもいい、船でクルーズをするほど、素敵なところだったのだ。

【瑞氣山公園】驛から電車で道廳前通まで行き、こゝで下車すると内地人街の中心地である。左折して「泉町」を横切ると正面が「平安南道廳」で、背後の小丘から一帶の平地が「瑞氣山公園」となってゐる・丘上には日清戰役の忠魂碑があり、こゝから南東を望めば市街の半ばが俯瞰される。
南麓の「瑞氣山通」には平壤鐵道ホテル・平壤公會堂・商品陳列館等がある。此の通の西は兵營街で、其の東、大向江畔には船橋里に渡る人道鐵橋がある。


驛から路面電車で向かう「道庁」とあるのは平安南道の道庁である。「道」は行政区分のひとつで、今も南北朝鮮に残る。

平壌鉄道ホテルはこんな立派な建物だった。今もあるのだろうか。

平壌鉄道ホテル.jpg

【大同門】道廳前から電車で北進し、「大同門通」で下車すれば、江畔に三層の樓門が巍然と聳えてゐる。此の「大同門」は京城口に設けた平壤六門の一で、約五百年前、李太宗の創建に係り、現在の門はそれより百七十年後に改築されたものである。結構の雄大、技巧の精妙、李朝初期の文化を偲ぶに足るものがある。
文祿の役に小西行長が孤軍敵の重圍に陷るや、大石某が此の高樓に昇り、矢石雨下の的となりつゝ全軍の退路を見極めたと傳へられる。

平壌大同門.jpg

【練光亭】大同門と竝び江畔の懸崖に建てられた古建築で、小西行長が明使 沈惟敬と會見した所である。廻欄から望めば、綾羅・半月の島洲が碧波の間に浮び、秀麗繪の如きものがある。

平壌練光亭.jpg

【普通門】市の北西、鐵道線と普通江とが接する所にある平壤の追手門で、大陸の迎賓要門として造られたものである。現存の門は、高麗成宗の時の建造で、大同門と共に宏壯な建築である。


平壌普通門.jpg

写真は当時の絵葉書から。人気観光スポットだから絵葉書が残っている。今はどうなっているか知りません。

【崇仁殿・崇靈殿】女子高等普通學校の隣地にある。「崇仁般」は箕子の位碑を安置し、「崇靈殿」には檀君を祀ってある。共に平壤の祖先を祀った靈廟で建物は李朝期のものである。

【七星門】府の北部、平壤六門の一つで、上は樓閣をなしてゐるが、規模は小さい。南に「平壤神社」がある。

平壌七星門.jpg

【乙密臺】七星門から登り坂を少し行くと、突當に古風の建物がある。「四虚亭」といひ、六百餘年を經た保護建造物で、此の建物のある丘が「乙密臺」である。亭から牡丹臺の天險、「玄武門」・「浮碧樓」を俯瞰し、右に綾羅島や對岸の飛行場が見える。亭の柱には日清戰役當時の彈痕が無數に殘ってゐる。

平壌乙密台.jpg

【箕子陵】乙密臺の南西、松林中に朱柱翠棟の廟が見える。高麗肅刷宗主の創立に係る古廟で、森巖の氣四邊に漲り、訪ふ人をして自ら襟を正さしめる。こゝにも日清戰役當時の彈痕を留めてゐる。


平壌箕子廟3.jpg

だいたいが歴史的な名所が観光地になっているのは、今も昔もどこでもそうなのだろう。

【玄武門】牡丹・乙市町二基の鞍部にある平壤最北の城門である。日清の役に元山支隊の原田一等卒が挺身城壁を越え、門扉を聞いて我軍を通したので有名となった。



【牡丹臺】玄武門の東に屹立する高臺で、日清戰役に清軍が砲列を敷いた所。頂上には今も當時の砲壘の廢祉がある。丘頂に「最勝亭」があり、こゝからは大同江の流れが繪のやうに眺められ、朝鮮八勝の一に數へられる。


平壌牡丹台.jpg

牡丹台からの眺めはそれはよかったようだ。朝鮮八勝の一つだそうだ。

朝鮮民主主義人民共和国
白頭山(ペクトゥサン)と天池
鴨緑江(アムノクガン)
金剛山(クムガンサン)
赴戦(プジョン)高原
牡丹峰(モランボン)(平壌)

大韓民国
智異山/海雲台(ヘウンデ=釜山郊外の場合も)
慶州/石窟庵(ソクグルアム≒仏国寺の場合も)
漢拏山

【永明寺】牡丹臺の麓にある高勾麗時代の名刹で、昔、道内の末寺を統轄し、司法警察權を有し、八伽藍があったと云ふ。日清戰役の時兵焚に罹り、今は小規模な堂宇が殘ってゐる。隣に高濱虚子によって紹介された「お牧の茶屋」がある。

【浮碧棲】お牧の茶屋の下、左側の斷崖上にある朝鮮屈指の古建築で、浮碧樓の名は高麗睿宗西巡の際、こゝで群臣と盛宴を張り、扈從李顏に命名させたものだと傳へられる。樓下は大同江の碧水に洗はれ、綾羅島・祥原・中和の諸山、大院里飛行場・船橋里戰蹟等一眸(いちぼう)に聚める(あつめる)山紫水明の勝地である。


平壌浮碧楼.jpg

平壌は今では簡単に行くことができないので、多めに紹介しました。最後に書かれているのはこちらです。

【妓生學校】平壤は古來官妓の本場として名高い。妓生學校は其の養成機關で、練光亭の北隣にある。歌謠・舞踊・國語・書畫を授けてゐる。平壤名物の一。

妓生(きーせん)とは誤解を恐れずに平たく言うと、日本の芸者・芸妓のようなもので、学校があって観光施設にもなっていたようだ。妓生学校は京城にもあった。

平壌妓生学校5.jpg

楽器演奏、舞踊などを若い女性が習っている。
喜び組が妓生の後継だろう。

この記事は日韓併合後の旅行ガイドと写真だけれども、妓生は李朝時代は性接待もしていた。
いや、朝鮮戦争後もそれは20世紀末まで普通にあり、外国人男性の韓国グループ旅行(職場旅行や接待旅行など)は妓生旅行と揶揄される状態だった。

朝鮮人が恥じなければならない歴史は日帝時代よりもその前後にある。
日韓併合が続いていれば、産業も文化も進化し、今のように人民が苦しむこともなかっただろうし、核という武器をちらつかせての国際交渉も不要だっただろう。

続く

  
| 読書 | 20:22 | comments(0) | - |


朝鮮満洲旅行案内<7> 昭和11年(1936) 京城(ソウル)
続き
昭和11年(1936)、三省堂発行の「朝鮮満洲旅行案内」は京城、つまり今のソウルまで読み進んだ。釜山との間に大邱とかいくつかの都市の案内があるのだが、割愛する。
ちなみに中国などでソウルの漢字表記は漢城だ。京城(けいじょう)は日本統治時代の残滓で使いたくないらしい。

京城
京城府は朝鮮半島の略ゝ中央に位し、東西約八粁、南北約一三粁。半島の首都で、政治・經濟・學術・軍事・交通の大中心都市である。

府は南に南山、北西から北に仁王山・北嶽山。 東に駱駝山が聳え、更に外方には北漢山・南漢山・冠嶽山の諸山が取卷いて二重の天然壁を作り、僅かに南西の一方が開け、そこを鐵道が弧線を描いて通じてゐる。市街は此の盆地状の凹地から丘陵の内斜面にかけて形成せられ、漢江の水は南東から還流して仁川灣に注いでゐる。

朝鮮満洲旅行案内-21-1.jpg

かゝる山河襟帶の形勝地が、遠く高勾麗・高麗又は李王朝五百年の都城となったのも決して偶然ではない。李朝の太祖は白嶽を背に南面して宮殿(景福宮)を設け、繞(めぐ)らすに高さ約九米、周圍約二〇粁の城壁を以てし、門を建つること八、いづれも關門を開いて上に樓閣を構へた。中でも南面の崇禮門(南大門)と東面の輿仁之門(東大門)とは結構宏壯を極めた。域内は東西中南北の五署に分ち、更に四十九坊、三百四十洞に分けて都市計劃を大成した。其の後騷亂の巷となることも一再ではなかったが、併合後、山嶽を練る外郭以外は城壁を悉く取除き、南大門・東大門を殘すのみで舊都(旧都)としての外觀は失はれた。其の代り近代都市の偉觀は全京城の面目を一新し、市域も南と西へ擴張して新・舊の龍山をも包含するに至った。


京城は大きな都市だが日韓併合前の19世紀末の李氏朝鮮時代にイギリス人紀行作家イザベラ・バードが「朝鮮紀行」を著している。とんでもなく汚くて臭くて狭隘な街だったと書いてある。いかに日韓併合が朝鮮半島の発展に寄与したのか、統治前の様子を知るとわかってくる。

鐵道は京釜・京義兩線の連接點に當り、東朝鮮への京元線も亦ここから延びてゐる。京仁線で結ばれる仁川は市の外港で、半島沿岸諸港、内地・大陸諸國への航路もこゝから放射される。更に内地から釜山・蔚山を經て來る航空路は平壤・新義州を經て大連に至り、滿洲國の航空路と連なり、奉天・新京・チゝハル等に接續してゐる。歐亞兩大陸の航空路を漣ねるのも遠い將來ではあるまい。
市内主要な街路には電車・バスが通じ、郊外への乘繼も出來る。叉市内名所を一巡して京城驛に歸着する市内遊覽バスもある。


鉄道は各方面の基点となっており、路面電車やバスが走っていた。現在は、路面電車は地下鉄に代わった。

【京城驛】京城の表玄關で、一日約一萬人を呑吐する。南大門外、府の略ゝ(りゃくりゃく=ほぼ)中央部に當り、北は京城の中心市街に通じ、南は龍山を控へ、恰も(あたかも)瓢箪(ひょうたん)の括り(くくり)に位置してゐる。驛舍はルネッサンス式の石材・煉瓦併用鐵筋コンクリート建で、表側は二階建、乘降側は三階建、中央に大玄關を設け、階上に食堂・事務室等がある。

当時の京城驛。



1988年のソウル駅。これは戦前からの建物で上と同じである。東京駅に似せて辰野金吾の弟子の設計だ。

PDVD_143.jpg

2005年のソウル駅。韓国の新幹線KTXが発着するようになり、かつてのソウル駅は脇にある。



遊覧順路は駅がスタート点だ。

〔遊覽順路〕
〔半日の遊覽〕:京城驛〜朝鮮神宮〜博文寺〜昌慶苑〜パゴダ公園〜總督府〜景福宮〜商工奬勵館〜京城驛。
〔一日の遊覽〕朝鮮神宮〜博文寺〜經學院〜昌慶苑〜パゴダ公園〜總督府〜勤政殿〜博物館〜徳壽宮。
〔二日の遊覽〕(第一日)朝鮮神宮〜恩賜記念科學館〜博文寺〜昌慶苑〜經學院〜徳壽宮〜朝鮮人の家庭觀察〜京城妓生の踊見物〜市内散策。
(第二日)商工奬勵館〜パゴダ公園〜總督府〜勤政殿〜慶曾樓〜博物館。其の他仁川・開城・清涼里・碧蹄館・洗劔亭・漢江・金谷陵等の近郊觀察。


パゴダ公園は仏塔(パゴダ)のあった公園だ。

朝鮮満洲旅行案内-22-3.jpg

のちの独立運動である三・一運動の集会に使われた公園らしい。
今は名前を変えてタプコル公園という由。

【南大門】驛前から北東に直通する南大門通、五大路の交叉する廣場の中央にある。本名を「崇禮門」といひ、附近の堂々たる洋風大建築の中に、五百年の蘇苔を被って巨大な棲門が儼然(げんぜん=おごそかで近寄りがたい)と聳え、東洋藝術の精華を誇ってゐる。門は京城八門中の隨一で、東大門よりも技巧が優れてゐる。

京城南大門.jpg

【朝鮮神宮】南大門通を右に曲り、山手に向ふアスファルトの表參道から舊城壁に沿うて三百八十一段の廣い石段を登りつめた所に社殿がある。祭神は天照大神及明治天皇の御二柱で、畏くも半島鎭護の主神として御靈を迎へ奉ったものである。社前の外苑は元の「漢陽公園」で、三方がよく開けて展望がよく、市街を脚下に俯瞰し、遠く清涼里の森や漢江の長流、北漢山等をも望み見ることが出來る。



【博文寺】南山の北麓、松翠を負ふ閑靜な奬忠壇公園の丘上にある鐵筋コンクリート造りの寺院で、朝鮮開發の偉勳者伊藤博文公の靈を祀ってある。寺は曹洞宗に屬し、山號を春畝山と號し、昭和七年二十七萬餘圓を投じて完成したものである。


南大門は今も残るが、朝鮮神宮博文寺はない。博文は伊藤博文で初代朝鮮総督の彼を祀ってある。そんな寺があったなんて知らなかった。
伊藤は恨まれて朝鮮人テロリストの安重根に暗殺された。だが安の子孫がこの寺に参ったらしい。
なんでも反日の韓国は安を英雄視して、さらに反日感情を煽っている。

【景福宮】李朝太祖創建のものは輪奐(りんかん=建物が広くて立派なこと)の美を極めた豪壯なものであったが、文祿の役前、亂民のために灰燼に歸し、廢宮同樣となってゐたが、攝政大院君が再建を企て、明治三年竣工した。當事の宮殿は周圍約三粁の大城壁に圍まれ、敷地面積十三萬坪に及び、正門は光化門と稱し、東に建春門、西に迎秋門、北に神武門があった。今は光化門は東に移され、「勤政殿」・「思政殿」・「慶會樓」等の主要建築を殘して他は移築又は取毀されてしまった。勤政殿は諸儀式の行はれた所、忠政殿は政治を見られた所、慶會樓は宴會場である。構内に總督府の博物館がある。

景福宮は今でもソウルを代表する観光地だ。

朝鮮満洲旅行案内-22-2.jpg

2003年のほぼ同じ場所での撮影。たしか入場料が必要だった。

2002-12-12.jpg

1988年の勤政殿。

PDVD_156.jpg

【總督府博物館】建春門を正門とし、白亞の本館は階上と階下とに分れ、中央大廣間(二階はギャラリー)と左右二室と合はせて六室ある。第一室は三國時代及新羅統一時代の佛像を、第二室は同時代の工藝品を、第三室は高麗時代・李朝時代の遺物を置き、第四室は樂浪時代の發掘物を、第五室のギャラリーには銅器・鏡・朝鮮活字等の特殊品を、第六室には書畫を陳列してある。月曜日のほか毎日開館。

朝鮮満洲旅行案内-21-2.jpg

【朝鮮總督府】景福宮構内南側にある。ルネッサンス式花崗岩張鐵筋コンクリート五層建の宏壯な白亞殿で、工費六百三十餘萬圓、十箇年の歳月を閲し(けみし)、大正十五年に完成したもので、總建坪九千六百餘坪、玄關・廊下・會議室等は色彩美しい朝鮮の大理石を以て裝飾され、殊に大ホールの壁畫は和田三造畫伯の筆になる内鮮融和を表徴した神話を畫いた傑作である。


どちらも現在は建物そのものがなくなっている。1988年の旧朝鮮総督府の建物は博物館になっていた。立派な建物だったが、景福宮の正面に経ち、景福宮を覆うように作られていた。

PDVD_154.jpg

ほかにもいろいろな名所の案内があるが、一部だけ紹介します。最後に…、

【京城帝國大學】經學院から東大門へ出る新道の兩側は學校町で、帝國大學・高等商業・高等工業・醫學專門學校等の校舍が竝んでゐる。「京城帝國大學」は法文科と醫科との綜合大學で、講座數七十五ある。更に道を電車通に出て東に進めば東大門に出る。

朝鮮-京城帝国大学.jpg

外地に帝国大学を作ったのは日本政府がそれだけ外地の教育に熱心だったということだ。もうひとつは台北帝国大学だった。
「日韓併合はいいこともあった」と政治家が発言して更迭されるバカな国だが、日韓併合をしないでおけば、今の韓国は北朝鮮レベルの国のままであっただろう。

続く

  

| 読書 | 17:21 | comments(0) | - |


| 1/23PAGES | >>