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クイズ赤恥青恥 2時間SP 各界天才たちのその後
テレビ東京「クイズ赤恥青恥」はテレビ東京系列でミレニアム前後に放送されたクイズ番組である。
2001年4月放送の2時間スペシャルに各界の"天才"たちがパズルっぽいクイズに挑戦するというおちゃらけがあった。そのビデオを見返すと、19年後の2020年にの各界の"天才"たちのその後を知って愕然とした。

まず出場した5人の天才たちを紹介しよう。

東大理学部で国際数学オリンピックに3回連続金メダルを受賞した長尾健太郎

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アメリカ横断ウルトラクイズ優勝など、80年代を代表するクイズ界の帝王北川宣浩

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世界オセロ選手権チャンピオン3回の、村上健

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円周率暗記元世界記録保持者(4万桁)、友寄英哲

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ご存じ、天才卓球少女、福原愛

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この5人に出題された問題の第1問目。

マッチ棒6本を使って正三角形4つを作れ
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これは平面で考えてはダメで3Dで考える。立体の正三角すいを作ればよい。

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第2問目は、8つの同じ大きさの物体があるが一つだけ重たい。天秤を2回だけ使って重いものを見つけろ
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クイズ王がごちゃごちゃ言いながら、実演する。
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3個、3個、2個のグループに分けて3個の重さを比べ、重いものがあったほうから2個とって重さを量り、釣り合ったら残りの1個が重たい。
3個ずつが釣り合ったら2個の組の重さを比べて下がったほうが重たい。

正解を出した。

ここに出題した天才たちは、それなりの有名人なのでネット検索をして今はどうされているか、確かめてみた。

オセロチャンピオンの村上健さんはいまだにオセロをしている。村上健のオセロ日記で精力的にオセロの指導や試合をしている。

円周率記憶の友寄英哲さんは記憶術実践研究家として80歳を過ぎても活躍。目隠しルービックキューブ最高齢記録保持者にもなっていた。記憶術の著書もある。

卓球の福原愛ちゃんは説明不要だろう。今はママとなって卓球指導をしている、はず。

さて、数学オリンピック金メダルの長尾健太郎さんの名前を検索して愕然とした。
2013年10月にガン(胞巣状軟部肉腫)で31歳で亡くなっていたのだ。15歳で発症したというから、赤恥青恥の撮影時はすでに病と闘っていたのだ。いや、数学オリンピックで優勝したときもそうだったのだ。

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開成高校在学中から開成史上最高の天才と名高く、現役で東京大学理科一類に合格し、東京大理学部数学科、京都大大学院博士課程理学研究科数学・数理解析専攻に進んだ。イギリスのオックスフォード大での研究員生活を経て、2010年、名古屋大大学院多元数理科学研究科助教に就任する。2013年9月、研究成果が認められ、日本数学会で権威ある「建部賢弘賞」を受賞する。

2009年、囲碁を通じて知り合った、NHK囲碁講座にも出演していた押田華奈さんと結婚する。

「美人囲碁インストラクター」 亡き夫は開成で伝説の天才だった、は華奈さんに取材した記事だ。付き合っていたころから長尾さんの病気は進行していたが、それを押して結婚した。



これは2011年の記事だがすでに病が進行しているはずだ。

長尾さんは数学界で一目置かれる存在となっており、早すぎる死に周囲の人々はみな驚き、悲しみ、残念がった。

早世の数学者、長尾健太郎さん(その1) 師も驚く美しい解答

単に天才なだけでない、人格的にも優れた人物だったと思われる。

華奈さんはその後も囲碁インストラクターをしており、一粒種の想太くんも少年棋士として活躍している。

ジュニア本因坊 津幡小3年・長尾さん全勝 北信越代表の座つかむ /石川


長尾健太郎さんは、算数オリンピックの小学3年生以下の部の最優秀者に贈られる「長尾賞」に名を遺す。
ご子息の想太くんがどんな道を歩むのか、いずれその名前が私たちの前に出ることになるだろう。

で、残る北川宣浩だがこれはどうでもいい。マッチ棒で三角を作って遊んでいればよい。

この5人の撮影はそれぞれ別だったので、私たちは互いに会っていない。しかしおそらく放送は見たことだろう。私はほかの人たちをサーチしたが、ほかの人は私を検索したのだろうか。

ウルトラクイズで優勝した時も、小学校や中学校の友達から電話がかかることはなかった。つまり誰も私をサーチしていないのだろう。
そうやって話を自分に戻して、一人寂しく人々の記憶からも消えていくのだと思いました。

  
| クイズ | 16:59 | comments(0) | - |


Yahoo! Internet Guide 2000年7月号に紹介されました
昔の自分のホームページをインターネットアーカイブで探していたら、

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Yahoo! Internet Guide 2000年7月号で紹介されたとある。



Yahoo! Internet Guideは雑誌で、Yahoo!と連動して、最新パソコン機器やインターネットの接続の仕方やフリーウェアと呼ばれるインターネット上で入手できる無料のソフトウェア、お勧めのホームページなどの情報が掲載されている雑誌だった。今は廃刊になっている。

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Bestweb Guideというコーナーの、
オンラインでクイズを堪能! QUIZ
という記事で、テレビ番組やクイズやパズルのサイトの特集だった。

この中で私の「北川宣浩のホームページ」が紹介されていた。雑誌も買ったのだろう。捨ててはいないはずだが見当たらない。でもリンクされておりクリックすると、雑誌記事の一部がインターネットアーカイブでも見られるようになっていた。

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Yahoo! Internet Guide 2000年7月号より
●クイズ王の作ったクイズに、いざ挑戦/北川宣浩のホームページ
第2回ウルトラクイズ、クイズタイムショックをはじめ数々の優勝経験を持つクイズ王のページ。自ら制作したという、目で見るクイズ“映像王”は、初心者でも楽しめる。“お宝館”には番組台本、早押しでおなじみのウルトラハット、優勝者のみが手にするハワイ旅行のしおりなどファン垂涎のグッズばかりが並ぶ。海外旅行なんて夢のまた夢だった70年代、クイズ番組の賞品はかくも豪華だったのだ。


リンクは昔のURLなので、今のURLに貼りなおしておく。

思えば、2000年前後はインターネット黎明期であり、ホームページがあればそれだけで十分だった時代だ。
ホームページと言えども、企業でさえ多くはocnやnifty、odnなどのプロバイダの無料提供ホームページを使っており、下層に伸びる長〜いURLだった。

私は2000年前後は新設されたホームページ作成やインターネット広告を受け持つ部署にいて(広告会社)、自身の勉強のためにもHTMLを覚えてホームページを制作した。自分の趣味のクイズや鉄道、旅行についてのホームページだった。
雑誌に紹介されるとは、それなりの価値があり、私個人にもまだ神通力があった時代だろう。

あれから20年、馬齢だけを重ねて人々の注目を得ることなどなにもしていないが、言い換えればそれだけ仕事に注力していたことになる。
今、ボーっとしていてよいのかと我ながら気になるが、年寄りが何かを始めようとしても惨めな結果になるのがオチだから、もうおとなしくしておく。
カップヌードルを作った安藤百福さんは「何かを始めるとき、遅すぎることはない」と名言を残されているけれど、私の周囲を見ると惨めな老人が多いので、私自身も無理はしないでおきます。
| クイズ | 17:49 | comments(0) | - |


FLASH Exciting 2000年12月号で紹介されました
インターネットアーカイブで、今はない昔の自分のホームページを見ていたら最新情報欄に、

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●FLASH Exciting 2000年12月号で紹介されました。

とある。



光文社のFLASHなんて半分エロ本と思っていたが、そんな高尚な本に紹介されたのか。20年も前の出来事で、まったく記憶がない。
そこで「ないものはないインターネット」で検索すると、ヤフオクに出ていたので手に入れた。

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真中瞳の表紙で、彼女も「電波少年」に出ていたころとは随分と雰囲気が変わった。この表紙も記憶にない。

目次を見ても自分が該当するような記事は見当たらない。「世界初!!マルチアングル六面体ヌード」にも出ていない。「激似AV2400分」にも出ていない。

やっと「一芸リーマン」を探せ!にたどり着いた。

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そこには、クイズの芸があるサラリーマンとして紹介されていた。

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そういえばFLASHに出たような記憶が無きにしも非ず。

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記事をOCRでテキスト化したら、こんなことが書いてあった。私の談話を正確に記事にしている。

クイズをとおして手に入れたのは博学と仲間たち

広告代理店に勤める北川さんのもうひとつの顔は「クイズ王」だ。視聴者参加クイズ番組の全盛期だった'70年代後半から'80年代にかけて、次々にクイズ大会に出場しては、優勝をさらった。
「第2回アメリ力横断ウルトラクイズ」をはじめとし、「クイズ・タイムショック」「パネルクイズアタック25」など、じつに8つもの番組で優勝している。
当時はいわゆる知識クイズが中心。「勝ち抜くことより、雑学を覚えるのに夢中になっていました」。
当時身につけた雑学は、今、仕事でも役に立っているとか。
「仕事柄、どんな話題でもついていけるのは、強みですね」
クイズをとおして、仲間も増えた。ニフティ上にクイズ&パズルフォーラムを設立。チャットで早押しクイズをやったり、公民館でばらまきクイズをしたりと、アイデアは尽きない。
「単なるクイズマニアで終わりたくない。クイズを新たな趣昧の分野として確立したいんです」

HPでは過去の"戦績"も公開。http://homepage1.nifty.com/kitagawa/
クイズタイムショックで2回優勝したのは北川さんだけ。


いつも、「単なるクイズマニアで終わりたくない。クイズを新たな趣昧の分野として確立したいんです」と言っており、これは20年後に実現している。伊沢拓司君や松丸亮吾君たちがクイズタレントとして活躍しているし、テレビ局に頼らない競技クイズの場も各地にできている。雀荘でなくて"クイズ荘"もある。
私は何もしなかったが、やはりそういうことを考えて実現した人たちがいるのだ。ありがとうございます。

私の近影は会社の会議室でカメラマンが来て撮影したのだっけ?ニコンF4を持っているカメラマンがいたが彼だったっけ?それともこちらで撮影して渡したのか?

2000年にはすでにデジタルカメラが普及しだしており、私は富士フイルムのFinePix4700zを使っていた。ただし写真フォルダにはこの写真はないから、カメラマンが来て撮影したのだろう。



当時はすでにwindows98のVAIOのノートパソコンを持っており、WEBカメラやインターネットに接続するためのPHS(64Mbps)を取り付けて遊んでいた。

2000年は父が亡くなり師匠の種村直樹氏が脳梗塞で入院した、まさに世紀末だった。
| クイズ | 18:56 | comments(0) | - |


ザ・タイムショック 50周年記念 42年前の最古の映像で"出演"
テレビ朝日のクイズ番組「ザ・タイムショック」が「クイズ・タイムショック」時代から50周年を迎えた。まずはおめでとうと言おう。

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初回の1969年の映像はテレビ朝日に残っておらず、最も古いもので1978年のだそうで、ツイッターなどでそれより古い映像の募集をしていた。古いビデオテープを持っている人はツイッターのDM(ダイレクトメッセージ)で知らせてほしいというのだが、スタッフはツイッターに詳しくないのか、DMが送れないデフォルト設定になっていた。つまり、DMは原則、相互フォローでないと送れないので、設定を変えて誰でも送れるようにしなければならないのだが、そうなっていなかったし、フォローした人をフォローし返すこともしていなかった。

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やむなく、52円時代の年賀はがきに10円切手を貼ってはがきで知らせた。1977年のビデオがあること、ツイッターでDMが送れないこと。普通のはがきを書くのは5年ぶりくらいか?
メアドを書いておいたのでメールで返事が来た。

VHSテープを送ってほしいとのことだったが、すでにデジタル化してあるのでそのファイルを送ったら使えそうらしく、それが本日の放送で使われた。

7時20分ごろの早い時間で、1969年の新聞縮刷版から当時の番組表の紹介があり、

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初回のテープを探したが存在しないで、私の1977年9月29日放送分が最も古かったようだ。
司会は田宮二郎さん。

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そもそも一般家庭に存在している映像資料は、家庭用ビデオデッキのSONYのベータマックスが1975年の発売、ビクターなどのVHSが1976年なので、それ以降と考えるのが普通だ。それ以前でも録画機器はあるにはあったがテープをα型に回転ヘッドに巻き付けるなどの特殊な方式ですぐに廃れたから、そのころの番組を録画して現在も残っていて再生できることは極めてまれだろう。

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私はそれこそクイズタイムショックに勝ち抜いている1977年9月の放送開始前にVHSビデオデッキのビクターHR-3300を25万円で買ったのだ。VHSテープは2時間で4500円した。もちろん、自分が勝ち抜いているクイズタイムショックを録画するためだ。途中で負けたとしても、ある程度の賞金はもらえるのが分かっていたのでビデオデッキの購入資金にもなっていた。

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私はすでにパネルクイズアタック25で優勝しており、タイムショックには「クイズ荒らしになりたい」という触れ込みで出た。インパクトのある自己紹介でないとなかなか出場のチャンスは回ってこないのだ。

そして次々と勝ち抜いて、5週勝ち抜きの優勝を果たした。

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現在の写真が欲しいとのことで、5週勝ち抜きと1985年の全問正解時の優勝トロフィーを天袋から引っ張り出して、それを手に持って撮影して送った。
変わり果てた姿である。42年前に会いたかったね。

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全問正解はまったく取り上げられなかった。
しかし、過去の映像紹介で全問正解時の映像も使われた。この「出た!百万円のド迫力」とは、私のことである。
ちなみに日付が間違っており、1985年9月26日が正当である。

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これが今回は使われなかった全問正解時の映像。

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司会は山口崇さんに代わっていた。

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それにしても、番組スタッフは失礼ながらネットリテラシーが低いと思った。ツイッターのDMもそうだし、クイズタイムショックのWikipediaに私のことは出ているから、私へ連絡したければ比較的簡単にできて録画の有無を問い合わせできるのだが、それもなかった。
クイズ作家の道蔦岳史君に「大木一美さんの連絡先を教えてほしい」と打診があったそうだ。大木さんは1980年前後のクイズ番組を片っ端から録画している変人だった。タイムショックでも私のあとに優勝している。

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大木さんと連絡が取れたのか連絡したのか、わからない。
ちなみに私も大木さんに触発されて1980年から数年間、主要なクイズ番組を全部録画して保存してある。

番組宛てに映像を送ったのは6人とのことだが、これは石野まゆみではないか。

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タイムショックで5週勝ち抜き優勝をした翌1978年、第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝して、このビデオデッキで録画した。それはタイムショックでの「クイズ荒らしになりたい」という口上が実現したことでもあった。さらに1985年には全問正解し、1980年前後はクイズで青春が明け暮れたのである。

| クイズ | 21:22 | comments(0) | - |


たけしのこれがホントのニッポン芸能史 クイズ番組 アタック25
9月4日のNHKBS「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」はクイズ番組を取り上げていた。とても興味深く視聴した。

過去のクイズ番組の裏話は内容の違いこそあれ、この手の番組を作るのに誰もが思いつくだろうが、細かいところでは「クイズ・クイズ番組」というクイズ番組をテーマにした(99人の壁にもありそうだ)クイズで、出題された問題はいずれもクイズ史に残る名問というか話題のクイズからの問題だった。QUIZ JAPANと日本クイズ協会が企画協力をしていたらしく、なるほどと納得する問題の選び方だった。

中でももっとも興味深く見ていたのは、現在も続く視聴者参加のクイズ番組「パネルクイズアタック25」の舞台裏を取材していたコーナーだ。

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録画前に司会の谷原章介さんを交えて、出場者のプロフィールから問題を読むアクセントまで検討しているシーンを放送していた。

実は1979年、今から40年前に私もパネルクイズアタック25を取材していた。その前年に第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝しており、「TVクイズ大研究」という本を書くことになったので、出版社を通じて朝日放送に取材を申し込み、録画当日の模様を拝見したのだ。

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今も変わらぬというか、司会の児玉清さんはじめ、スタッフ一同の打ち合わせシーン。児玉さんは一番奥です。

そしてスタジオの司会者席。パネルの色をコントロールするボタンがある。今ではパソコン仕立てなのだろうが。

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回答者席はアナログチックだ。ここに座ったことがあるが、ボタンはパソコンの「空白キー」より細長いバーだった。ボタンとはいいがたい形状だった。

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なにやら、制御する機械。コンピューターというよりも電子計算機か配電盤だな。
こういうの、すっごく興味深く拝見していた。

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そういえば、当時はアシスタントを紹介しており、彼女がパネルの制御をしていたのだが、今はコンピュータ制御で人手不足解消か働き方改革か、AIに仕事を取られたか。

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パネルの裏側。今は全然違うのだろうな。



スタッフは「(クイズ問題の)間違いは許されないし絶対にない」と豪語していたが、そうなのだろう。緻密な事前の仕込みと打ち合わせがこんにちまで続いている長寿クイズ番組たる由縁なのだと思った。

| クイズ | 22:23 | comments(0) | - |


アップダウンクイズ最終回第1084回 1985年10月6日
アップダウンクイズを知る人も少なくなったが、TBS系列の大阪毎日放送MBSで制作されていた正統派クイズ番組だ。
放送開始は1963年(昭和38年)10月6日、70年代の視聴者参加クイズ番組をけん引し、終了は1985年10月6日で22年間にわたり、日曜日の夜を楽しませてくれた。

私が小学生からの番組で、お茶の間で家族でぼそぼそと答えながら見る習慣があった。
このときの放送局は東京では10チャンネルのNET(現:テレビ朝日)で、ある日司会の小池清さんが「ご覧のチャンネルが変わります」と、次回からTBSで放送すると告げた。1975年4月からのネットチェンジ、東京と大阪の放送局の系列が異なっていたいわゆる"腸捻転"を解消したのである。ずいぶん長いことNETの番組と思っていた。NETは木曜日のクイズタイムショックと日曜日のアップダウンクイズだったのだ。

私はクイズに夢中になっており、伝統のアップダウンクイズはぜひとも出場して優勝するつもりでいた。まず1978年2月に出場して9問正解、あと1問で優勝なのを逃した。



続いて1981年5月に再出場し、10問正解で優勝した。この時はすでにアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ王になっており、番組代理店の萬年社(倒産)の藤井洋一さんから「北川さんは極端な人ですな、神様のように言う人もおればボロクソに言う人もおる」と、至極納得する評価をいただいた。藤井さんはアップダウンクイズの予選から出場者の選定、当日のケア、優勝旅行の説明などの全般をしてくれて、当時のクイズマニアはみなお世話になっていた。どうされているだろう。
この前後の優勝者にクイズ仲間が多かったので、日程を合わせて4人でJALPAKでハワイに行ったのは楽しい思い出だ。



さらに1981年秋の20周年全国大会の関東地区に参加させてもらって、優勝したのは道蔦岳史だった。



出題形式は「○○を何という」というオーソドックスな早押しクイズで、「YesNoクイズ(要するに○×)」や「目で見るクイズ」「シルエットクイズ」などがあり、シルエットクイズは時の人がゲストに招かれシルエットやヒントでその人を当てるという趣向だった。
クイズマニアの中には「今に偉くなってシルエットゲストに呼ばれるのが夢」と言ってた者がいたが、その夢はかなわなかった。



予選問題は30問で出場すること自体がたいへんだった(ほかは20問が一般的)。クイズ内容も難しく特に後半の8問9問になっているときに素晴らしいひっかけクイズが出て、一気に下に落ちる人もいたので油断できなかった。
回答者は6名で、ゴンドラと呼ばれたリフトで上下するケージに入って、1問答えると1段アップし10問(10段)正解で優勝、協賛のJALによるハワイ旅行、間違えると9段目であっても一気に下までダウンするルールだった。



そのアップダウンクイズの終焉はどうだったのだろうと、1985年のビデオをラックから取り出したら再生されない。VHSカセットを見たらテープが経年劣化で切れていたので分解してつないだが、もうこのビデオはまともに再生できないだろう。それほど月日のかなたの物語なのだ。



毎週日曜日午後7時から、協賛のJALのCMが入った。



そしてロート製薬1社提供のため、ロート製薬の社屋に鳩が舞うオープニングで明けるのが常だった。これはクイズダービーも同様だった。




ところが1985年8月12日に日航機が御巣鷹山で墜落したためJALはプロモーションを自粛、JALのCMは無くなった。
それまでは優勝者にJALのCAがJALバッグを渡す演出があったが、



事故後はそれもなくなった。ただし事故後最初の放送は9月8日で、それは8月10日に録画していたもののため、CAがバッグを渡すシーンはカットされたが、バッグそのものは優勝者が手に持って映っている。また番組終了時の優勝者を囲んだ引きの絵にはCAが映りこんでいる。



アップダウンクイズは1985年10月6日で放送を終えた。つまり晩年はJALが前に出ることなく寂しく終えたのである。

終了前のチャンピオン大会に水津康夫が出ているが、彼は優勝を逃した。
そして10月6日の最終回は過去にシルエットゲストで登場した有名人が二人一組で回答する趣向だった。

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この時のシルエットゲストは江夏豊。最終回にふさわしい大物だったが、

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私としてはその2年前に司会者を降板した小池清アナに出てほしかった。放送局員なのでそうもいかなかったか。



タレント大会なので問題は易しい。
YesNoで「ワカメが成長するとコンブになる」という問題が出て、談志師匠が「ノーだな」と答えていた。

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タレント大会なのでグタグタ進行していたら、画面が切り替わって司会の西郷輝彦が「最後の問題です」になった。
出題の佐々木美枝さんが「別れの曲として知られる蛍の光の作曲者は日本人・外国人どちらでしょう」という問題を読み、平尾昌晃・中村泰士の作曲家コンビが9問目だったので皆が譲るかと思ったら、

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鳳蘭・麻実れいの宝塚コンビが「外国人…」と答えてしまい、むなしい終わり方をした。

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ラストで出題の佐々木美枝さんは涙ぐんでいた。

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彼女は1978年、私が最初に会った7年前と変わりないですね。吉永小百合に似ているかわいいおねいさんだった。



空になったゴンドラをバックにアップダウンクイズの歴史が字幕で紹介される。
第一回放送 昭和38年10月6日
放送回数 1084回
総出場者数 6816人
10問正解者数 639人
総問題数 48781問

22年間のご声援まことにありがとうございました。

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しかしこの回はいつもより問題数が少なかった。というのは来週から始まる新番組「クイズ!ひらめきパスワード」の予告がかなり長い時間放送されたので、その分、アップダウンクイズの時間が短かった。

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アップダウンクイズの終焉は、一言で言えばコンテンツが時代にそぐわなくなったためだ。セットは上下に動く画期的なものだったにしても、「○○を何という」というオーソドックスなクイズ形式が、バブル期の目まぐるしく変化する時代からするとトロイものになっていた。競合のクイズ番組はタレントが面白おかしく答える形式の、トークバラエティの要素を取り入れたものに変わっていったし、問題も「なぜこうなるのでしょう」といった考えさせるものや、回答の解説そのものが興味の対象になる、今で言えばNHKの「チコちゃんに叱られる!」的なものに変わっていっていた。

テレビの番組は時代ごとにさまざまなコンテンツが生まれては消えている。しかし消えなかったものがある。それはクイズファンたちのクイズへの情熱だった。タレントしか出られないクイズ番組に我慢のならない人たちが出てきた。
私は「テレビ番組に頼らず、いつでもどこでもだれとでもクイズを楽しめる、かつて学生街にあった雀荘のようなクイズ荘」があればいいと常々思っていた。これは1991年、パソコン通信、今でいうインターネットの利用で可能になった。チャットシステムを使って全国の人たちとクイズを楽しめるようになったのだ。
学生たちのクイズサークルは早押し機を自作して校内あるいは近隣の大学とで連盟を作り、互いに対戦型クイズを楽しむようになった。その草野球ならぬ草クイズは発展し、CS放送で競技クイズ大会が開催されるまでに至った。
念願のクイズ荘は、東京のQUIZ ROOM SODALITEを皮切りに、実際に人と人とが対戦する施設ができている。
石川県 クイズスペースモア
徳島県 ここはれ

さらに一般社団法人日本クイズ協会ができ、クイズの普及に努めている。
また、タレントたちの中ではいわゆるクイズタレント、プロクイズプレーヤーも登場している。

アップダウンクイズの最終回のビデオを見直して、この30年の間にテレビのクイズ番組に頼ることなく、クイズへの情熱を燃やし続けた人たちがおり、いつでもどこでもだれとでもクイズを楽しんできたことに改めて気づかされた。かつてあこがれた伝統のクイズ番組がなくなっても、自分たちでクイズを楽しむ術(すべ)を見つけ出し、あまたのクイズ番組の墓標を乗り越えてクイズを楽しんで、あるいは商売にしている人たちの情熱とたくましさに感動している。

クイズの本4冊+アルファ
| クイズ | 17:01 | comments(0) | - |


韓国釜山での日本観光クイズ大会2012
韓国からの訪日客が減っている。
1965年に取り交わした日韓請求権協定で、戦前戦中の日韓の問題は政治的法的に解決したにもかかわらず、韓国の裁判所が韓国人徴用工に対して賠償をしろという不当な訴訟・判決を出したことで一気にこれまでの日韓問題に火が付いた。

もとから竹島、慰安婦に、レーダー照射徴用工が加わり、しかも韓国は北朝鮮に対して国連決議に反するせどりをしていたので、日本は武器に転用される恐れのある資材の輸出を厳格にした。禁輸ではない。手続きがズボズボだったのをほかの国と同じようにしただけだ。

これまで韓国は日本に甘えており、日本には何をしても許される、日本も許してくれると思っていたお子様だったが、日本は初めてくらいに韓国に対して毅然とした態度をとったので、今度は韓国が慌てた。

私は韓国ごときと仲良くすることはなく、国交断絶でも構わない。
かつては韓国の仕事をしていたし、仕事を通じて知り合った韓国の人々はみな良い人たちだった。同じ広告屋は広告屋のマインドが一致して、一緒に仕事をするのは楽しかったし刺激になった。
子供たちを連れて訪韓したこともある。

2012年、東日本大震災で落ち込んだ訪日需要を喚起するために釜山で日本についてのクイズ大会が開催された。この問題の監修をしてくれと言われた。こんな日韓関係もあったということで紹介します。

クイズは韓国でいまだに放送されている人気クイズ番組「挑戦!ゴールデンベル」の形式をとった。

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ジャンルは日本観光、日本食、日本文化の3つ。クイズは○×、四択、筆記、そして決まらないときのための近似値問題を用意した。

いくつか問題をお見せしましょう。

●日本観光○×
Q.도쿄 디즈니랜드는 오사카에 있고, 유니버셜 스튜디오 재팬은 도쿄에 있다?
答えは×ですね。
ちなみに日本語訳は「東京ディズニーランドは大阪にあり、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンは、東京にある?」

Q.홋카이도 후라노지방의 심볼이기도 한 보라빛의 귀여운 꽃을 피우는 식물의 이름은 튤립이다?
これも×。
日本語訳は「北海道富良野地方のシンボルでもある、すみれ色のかわいい花を咲かせる植物の名前はチューリップである。」ラベンダーですな。日本語だと簡単だがハングルだと難しい。それは言語能力の問題だ。でも番組では下関の高校生と韓国語で対決したことがあるらしく、在日だったのだろうか。在日韓国人でも韓国語を離せない人は多数いるはず。

●日本観光四択
Q.일본은 아주 빠른 열차인 신칸센으로도 유명합니다. 그럼, 도카이도 신칸센인 산요신칸센의 열차 이름이 아닌 것은?
A. 노조미 B.고다마 C.히카리 D. 호시노
Dが間違い。こんな名前の新幹線はない。
日本語訳は「日本は高速列車の新幹線でも非常に有名です。では、東海道新幹線・山陽新幹線の列車名ではないのは? A.のぞみ  B.こだま  C.ひかり  D.ほしの」

Q.부산에서 정기편으로 직항 배편이나 비행기로는 갈 수 없는 일본의 도시는 어디일까요?
A. 시모노세키   B. 후쿠오카  C. 나가사키  D. 대마도
これはCで、ほかはすべて乗ったことがある。
日本語訳「釜山から直行定期便の船や飛行機では行くことができない日本の都市はどこでしょうか?  A.下関  B.福岡  C.長崎  D.対馬」
関釜フェリー、博多港からのジェットフォイル、対馬からのジェットフォイルで釜山に行ったことがある。

●日本食四択
Q. 일본 시코쿠지방에 있는 사누키우동이 유명한 현은?
A. 가가와현 B. 고치현 C. 도쿠시마현 D. 에히메현
これはAですね。大好き。
日本語訳は「Q.日本の四国地方で讃岐うどんが有名な県は?  A.香川県 B.高知県 C.徳島県 D.愛媛県」

●日本食筆記
Q.얇게 썬 소고기를 양파와 함께 달달하게 조려내 밥 위에 올려 먹는 음식은 무엇일까요?
答えは규동。
日本語訳は「薄切りの牛肉を玉ねぎと一緒にぐつぐつに煮て、どんぶりのご飯の上にのせて食べる食べ物は何でしょうか?」牛丼だな。

●日本文化筆記
야마구치현 하기시, 니가타현 니가타시, 구마모토현 구마모토시와 자매도시를 맺고 있는 한국의 도시는?
答えは울산시。これは知らなかった。当時の韓国人にしてもかなり難しい問題だ。
日本語訳「山口県萩市、新潟県新潟市、熊本県熊本市と姉妹都市を結んでいる韓国の都市は?」蔚山市(うるさん)
姉妹都市も解消だな。

日本人からすれば簡単だが、韓国人からすれば難しい問題も多かったのではないか。しかし160人80組が参加して盛り上がったので、よかったことにしよう。

今、JNTO日本政府観光局の韓国担当者は苦しいところだと思う。
だが悪いのは韓国。盗人猛々しいのは韓国。
竹島を返して慰安婦問題がウソだと認め、レーダー照射をした理由を明確にして、徴用工判決を無効にして、顔を洗って出直してこい。

  
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