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第2回アメリカ横断ウルトラクイズ リノで深夜のギャンブルクイズ
1978年9月18日月曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズでレイクタホを通過した7人は、未明に起こされた。カジノで撮影をするという。
昼間の混んでいる時間は撮影許可が下りず、未明の4時に撮影をするという。カジノにも撮影費・使用料を払ったのだと思う。
原則、正装のためニューヨーク決戦で着る予定で持ってきたスーツを着た。

今から思うと、リノの市街地にはいくらでもカジノがあるが、宿泊施設をハイアットレイクタホにしたのはレイクタホでもクイズができることと、このホテルのカジノの撮影料が比較して安く済むからの一石二鳥だったからではないだろうかと、うがってしまう。

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早押しクイズで正解するとフォーチュンウィルという巨大なルーレットみたいなものを回し、6$以上になると勝ち抜けできる。

ここで今回初めて早押しのウルトラハットが登場した。第1回では電磁石の仕組みで跳ね上がった?マークを自分で戻さなければならなかったが、今回からモーターで自動であがったり下がったりするようになっていた。かなり重たく、頭に深くかぶっているわけではないので、手で押さえていないと落ちそうだ。かぶり心地がいいものではない。

クイズに答えても1$5$を獲得したらさらに答えなければならないが、さすがのギャンブラー早坂さんがいっきに10$を出して一抜けした。

それにしても眠くて朦朧としていたけれども、ウルトラクイズでは深夜だろうが未明だろうが、起こされると悟った。テレビではそれがわからないが、わかるような演出をしだしたのはもう少しあとの回からだ。

敗者の外崎さんはスキーを履いて空港まで行く罰ゲームだった。本人はこの罰ゲームが気に入っていたらしい。夕方の飛行機でロサンゼルス経由で帰って行ったはずだ。アメリカの内陸部での敗者は、どこで落ちてもロサンゼルス経由で帰国しており、近畿日本ツーリストのロス支店の人がアテンドをしていた。

外崎さんは腕時計の時差をアメリカのままにしていると言っていたが、さすがにもう日本時間で暮らしているのだろうな。

二泊したハイアットレイクタホを離れる朝。

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実にのどかだ。

福留アナも伸びをしている。

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アメリカの湖はモーノ湖やベアー湖に行ったけれども(どこだよ?)、それらと比べるとタホ湖は開けていたと思う。

バスで空港に向かう直前は、オフィシャルの服装と表情になっている。

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| クイズ | 18:37 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ レイクタホってどこ?
1978年9月17日日曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズは、日本人にもなじみの深い西海岸のサンフランシスコから、内陸部の「レイクタホ」に昨夜のうちに移動した。
当時はアメリカといえば西海岸のSan FranciscoとLos Angeles、そして東海岸のニューヨークくらいしか日本人には聞き覚えがなかった。
タホ湖ってどこ?何があるの?
未知の地名で、場所もクイズ形式もまったく想像がつかなかった。

16日土曜日の夕刻にハイアットホテルレイクタホに投宿した。

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気温はひんやりとしており、持って行ったダウンジャケットを着込んで湖のほとりへ行ってみた。とにかく3週間分、真夏のハワイも極寒の山岳地帯も、そしてニューヨークの決勝にも対応したありとあらゆる衣服を、スーツケースに詰め込んで持っていってたのだ。

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夏は避暑の客でにぎわうのだろうか。9月の湖はもはや誰も居らず、ひっそりとしている。
杭かなにかにカメラを置いてセルフタイマーで撮影する根性。

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そして朝方からのクイズはレイクタホのほとりで行われた。

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とは言っても、日本人にはまったくなじみがなく、しかもコレといった特徴のない湖だ。背景の山がきれいなわけでも、おかしな釣り人を仕込むわけでもない。なんでこんなところでクイズをするのだろう。

レイクタホでのクイズはリレークイズで、順番を決めて並び、前の人が間違えたら自分にその問題の回答権が回ってくる方式だった。
その順番を決めるのは、レイクタホの水温を足で計ること。つまりはカンである。

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ひんやりと冷たく、私は4度と書いた。これは水の質量が最大になる温度だ。別に、4度と思ったわけではない。何度かまったくわからなかった。
しかし実際は14.5度で、16度や17度と書いた挑戦者が優先権を得た。
私は8人中5番目だったが、1問でも回答できれば勝ち抜けだ。

1問目の「日本古来から美女の代表は小野小町、では美男の代表は?」
私の前の人たちは回答できず、「在原業平」と答えて勝ちぬけられた。

次々に問題が出題され、結果的に7名が勝ち抜けた。
だが、次のチェックポイントはリノ。リノってこの場所なんだよね。つまり同じホテルに泊まってそのまま留まり、翌日に次のクイズになるはずなのだ。

レイクタホで負けた末松さんはカフェで顔にパイを投げつけられ、ベトベトになって帰国した。
まぁ、早く帰りたければ答えなければいいだけだよな。

| クイズ | 16:36 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ サンフランシスコの奇人変人クイズ
1978年9月16日土曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズのアメリカ本土初のクイズ会場は、サンフランシスコのマリンワールド・アフリカUSAでの三択インスピレーションクイズになった。マリンワールドは現在はシックスフラッグス・ディスカバリー・キングダムになっているようだ。

ここでの三択クイズは蛙の調教師や蜘蛛を食べる人などの奇人変人が登場し、その人物が誰かを当てるクイズと、そこから派生するクイズだった。だいたい三択のセオリー
「数字は極端なものを選べ」
「まず消去法で二択にする」
「正解の紹介映像のおもしろいもの」

で考えればできるものだった。

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ここでも余裕で抜けて写真を撮っている。イヤなやつだ。

クイズ撮影が終わってからの記念写真。このあたりまで来られる人は、やはりヒマな人たちなんだろう。
プータロー、デザイナー、主婦、学生、店員、自営業…。
ほかの人には失礼ながら、社会的にどれだけ必要な人なのだろうか。ここがウルトラクイズのネックで、こういう人たちの中からクイズ王が生まれる構図になっていた。

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同じ場所での写真だが、左の私が一眼レフカメラを持っている。

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当時、一眼レフカメラのニコマートFTNを使っており、これをアメリカに持参しようか迷ったのだが、大きく重たいのでおそらくコンパクトカメラのコニカC35FDを持っていったと思っていた。そしてニコマートは優勝旅行でニューヨークに来た妹に持参してもらったはずだ(本人はまったく記憶がない)。

ところがサンフランシスコの私はニコマートFTNを持っている。



ペンタプリズムの上部が平らにカットされているのが特徴だ。

ニコマートFTN

<ニコマートFTN ヤフオクより>

自分の写真を撮ってもらうのに誰かにコニカを渡して、その人が使っているニコマートを一時的に預かったとは考えにくい。
となると、カメラを二台持っていったことになるが、ネガを見ても一台のカメラで連続して撮影しているとしか思えない。ニコマートしか持っていっていないなら、ニコマートが映るはずがない。

いったいどういうことだろうか。
この写真を撮ってもらった誰かもたまたまニコマートを持っていて、一時的に預かったのだろうか。それにしてはロクに並んでない雑な写真で謎は残るままだ。

撮影が終わってからは象やシャチのショーを見たり、らくだと記念写真を撮ったりで、そこは本当に観光旅行気分であった。




罰ゲームは象の下敷きになるもので、象は訓練されているから体の上に覆いかぶさるだけで踏みつけられるわけではないが、罰ゲームを受けた敗者の細野さんによれば「臭かった」とのこと。
まさに罰ゲームだった。
| クイズ | 15:31 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ サンフランシスコの1日自由行動日
1978年9月15日金曜日、前夜、サンフランシスコヒルトンホテルに投宿した挑戦者10人は、第2回アメリカ横断ウルトラクイズで本土に上陸できたご褒美と、1日自由行動日を与えられた。
働き方改革でスタッフも休んだのか、あるいは台風などのアクシデントで日程が遅れたときのための調整日だったのか、とにかく1日撮影がなくて観光してよいことになった。

私はクイズタイムショックの優勝旅行でアメリカ西海岸旅行をし、すでにサンフランシスコには行っている。そのときと同じ行動をとった。

地下鉄のBART(Bay Area Rapid Transit System)に乗って、

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南カルフォルニア大学バークレー校に行った。

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できればこんな大学に留学したかったな。大学というよりも広大な公園みたいで、校舎なのか博物館なのか、数々の建物があり、尖塔がそびえていた。

市内に戻って、街角の公園でセルフタイマーで記念撮影。
1枚目は黒人が前を歩いてきて失敗した。



2枚目はシャッターが切れるのが早くてポジションを取れずに失敗した。



3枚目でようやく収まったが、貴重なフィルムを3コマ分も使ってしまったことになる。
しかも、別にサンフランシスコらしくない場所だ。

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そしてケーブルカーに乗った。

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サンフランシスコにはこれまで4回行っているが、やってることは変わりない。

| クイズ | 20:33 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ サンフランシスコからは家族と連絡禁止
1978年9月14日(木)、第2回アメリカ横断ウルトラクイズの挑戦者10人はアメリカ本土、サンフランシスコの土を踏んだ。到着は夕方だったのでそのままホテルに投宿した。

どうやらこの移動日の写真は1枚もないみたいだ。空港の写真も撮っていない。

では書くことがないので、もう1、2日後の出来事だったと思うが、サンフランシスコで重要な指示をスタッフから受けたことを書く。それは
「これからクイズの内容にも影響するので、家族と連絡を取らないでほしい
と言われたのだ。

これが今ならメールも無料通話もあるから、即効で「…って言われたんだけど、そっちはどう?」と家族に連絡するのだが、高い国際電話(それもダイヤルインでなくて交換手経由)かエアメールくらいしか連絡手段がなかったので、腑に落ちないが、従うしかなかった。

スタッフはなぜそんなことを指示したのだろう。もはやこの段階でわれわれもウルトラクイズという番組制作のために全額日テレ持ちで渡米している意識があったので、指示には従うけれども、なんなのだろうといぶかしがった。

まもなくその理由がわかった。9月22日のシカゴで発表されたのだが、国際電話連想クイズを家族とやって、優勝賞品は「家族2人を優勝者のいるニューヨークへあっという間に招待する」というものだった。
それをシカゴまで秘密にしておきたいから家族と連絡を取るなと言ったのだ。後楽園球場で通過者を集めた説明会で、近畿日本ツーリストの添乗員小出さんが「家族表を書いてください。当社の旅行でもいつも書いてもらっています」と言ったのは、渡米してほしい家族をスタッフが選ぶためだった。
たとえば婚約者がいるなら、スタッフは誰よりもその人を呼んで抱擁シーンを映したいだろう。



ではなぜサンフランシスコの早い段階で家族と連絡を取らないように指示したのか。それは家族にはパスポートを持っていない人もいるからである。パスポート取得に10日程度必要なので、その余裕を考慮して、家族には番組の趣旨を話し、ニューヨークに行く2名を決めてもらい、戸籍抄本やら住民票やらのパスポート取得に必要な書類を用意してもらって、申請をして旅券を取得し、渡米してもらう算段だったのだ。
そしてシカゴでの優勝賞品発表シーンで、驚く挑戦者の表情を映したいのだった。

優勝者の家族をニューヨークに招待する
シカゴでそれを聞いて私は家族を呼ぶのに反対した。なぜならば、家族はウルトラクイズと関係ない。ウルトラクイズに応募して挑戦しているのは私個人であり、いかに無料のニューヨーク旅行といえども、家族には関係ないのだ。
当時、日本レコード大賞や歌謡大賞で受賞歌手の家族をステージに呼んでお涙頂戴の演出がはやっていた。そんなことに家族を使われたくない。私は断った。

もう一人、反対した者がいた。
「自分には彼女がいて独身と言ってあるけれど、妻子がいるのがバレたら困る」

結局彼はシカゴで妻との国際電話クイズが放送されるときに彼女を呼び出して飲みに連れて行き、テレビを見られないようにしたらしいが、その彼女はウルトラクイズを知らず、最後は分かれたらしい。

そして日本の我が家では大問題が起きていた。
成田空港のじゃんけんで負けた妹はウルトラクイズに参加したのだから妹が渡米するのはかまわない。
だが、もう一人はどうする?

当時、厳格な祖母が同居しており、祖母の扱いに家族が困っていたのだ。
祖母が渡米できるわけがなく、となると父か母のどちらかが渡米する。母がいないと祖母の世話ができない。祖母は介護は不要だったが、自分の食事も作るわけがなかった。父は仕事がある。
祖母はヒステリックになった。私が優勝したら父か母が渡米すると聞いて、まだ決まっていないけれども、祖母は怒ったらしい。今でも語り草になっている。

「家族とのニューヨーク旅行」は、みんなから「一番いい賞品でしたね」と言われるが、はっきり言って歴代ウルトラクイズの賞品の中でサイテーだ。視聴者的にひねりがなくて見ていて面白くない。人の幸福の上乗せを面白いと思うだろうか。なによりそして当事者としては、無関係の家族を巻き込むのは40年前でもいかがなものか。
今なら介護が必要であったり、別居中であったり、家族関係はより複雑になっている。

私は高村プロデューサーに「家族は関係ないです。妹はともかくほかの家族はウルトラクイズと関係ないので来てほしくありません」と言った。
ナマイキなのは最初からだ。

| クイズ | 19:19 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ ハワイで帰る挑戦者
1978年9月13日水曜日午前、第2回アメリカ横断ウルトラクイズは「夢のハワイ」での対戦だ。
当時はできたばっかりで、ウルトラクイズの旅行を担当していた近畿日本ツーリストが販売に力を入れているアラモアナホテルでは、のちに生涯にわたって交流を持った小室周也さんと同室になった。あのときはさほど意識していなかったし、小室さんの名前も覚えていなかったが、その後何かの機会に会って意気投合したのだ。

昨日ハワイに着いた挑戦者20人は、ホノルル市街地東にあるカピオラニパークにてインスピレーションクイズになった。

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フラダンサーたちの踊りやポーズを見て、それが何か当てるクイズだ。
当時大人気だったピンクレディの振り付けなどもあったから、スタッフたちは前日から練習させたに違いない。

正解と思う答えをボード(画用紙)に書いて掲げるのだ。

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正解者にはレイがかけられ、レイ3つで次のチェックポイント、サンフランシスコに行ける。合格者は10人で、10人がアメリカ本土に行けることとなる。

クイズを知らなくてもそんなに難しい問題とは思えなかったが、正解できない人もいて、勝ち進める10人が決まった。間違えて悔しがる挑戦者たちだった。

ぺディキャブという自転車式の人力車で空港まで行く趣向で、勝者は椅子に座って乗っていけるけれども、

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負けた者は罰ゲームで、ペディキャブの車夫や勝者を乗せて自転車を漕がなければならない。

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ペディキャブは決して快適な乗り物とは言えなかった。
祖母が生前、「人力車は楽だったねぇ」と言っていたが、すでに自動車に乗っていたのに、人力車はそんなにいい乗り物かと思っていたけれども、そう思えなかった。

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ハワイでは20人が10人になる。つまり半々になる。
ハワイは当時からすでに来た者も多く、土地勘のある者たちは勝者も敗者も入り乱れて最後の夜を楽しんだ。

中には楽しみすぎて、身ぐるみはがれて「俺はバカだった〜」と悔やむ者も。

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しかしあとで知ったことだが「仕事があるのでハワイでわざと負けて帰る」という者が何人もいたのには驚いた。
こっちは仕事をやめてウルトラクイズに参加しているのに、仕事のためにウルトラクイズをやめて帰国するのか。
間違えて悔しがるのは「演技」だったのだ。

そうなるとあのインスピレーションクイズはクイズ方法を間違えていた。つまり個人戦だからいくらでもわざと間違えられるのだ。ピンクレディの「UFO」の振り付けを「ペッパー警部」と書いても、間違えちゃったで済ませるではないか。
その後のウルトラクイズではグアム・ハワイでわざと負けて帰るのを防ぐために、グループで回答する方式に変えた。戦中の隣組と同じように、連帯責任制を取り入れた。

| クイズ | 19:24 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ サイパンからハワイへ島伝いで移動
1978年9月12日火曜日、サイパンから午後の便で20人がハワイへと飛び立った。
このフライトは乗ってから知ったようなものだが直行便ではなく、島から島へと、南太平洋の島々を伝いながら飛ぶもので、とても印象深いフライトになった。

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もう一度、あの島々をめぐりたい。
小室周也さんの生前、二人でどこを飛んだのか、記憶を呼び戻しつつ話し合って作った地図がこちらだ。

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サイパン
グアム
トラック島(現在のチューク諸島)
ポナペ島(ポンペイ島)
コスラエ島
マーシャル諸島
ジョンストン島
ホノルル(ハワイ オアフ島)

島に飛行機が降り立つのは一大イベントらしく、島中の人々が空港に集まった。

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この写真はポナペ島だろうか、空港とは名ばかりの、掘っ立て小屋みたいなターミナルに人々が集まってくる。飛行機も、降り立つ外国人旅客も珍しいのだろう。セキュリティなど、まったく概念にない。

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スタッフたちも島民たちが珍しいみたいで、互いにはしゃいで写真を撮りあった。
1945年、この1978年の23年前までは日本が統治していたから老婆の中には片言の日本語がしゃべれる人がいて、とても親しみが湧いた。つまり、あの40年前のウルトラクイズよりも"戦前"は最近の出来事だったのだ。
島の人たちからは日本に対する敵意など微塵も感じなかった。おそらく統治によって島は発展したのだろう。なんでもかんでも戦前の日本に悪く言う人がいるが、それはステレオタイプである。

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素朴なやさしい笑顔の島民たちに、再び会いたい。今でもあの笑顔でいるのだろうか。今でもあの島々にはあこがれている。私はダイビングやサーフィンなどのマリンスポーツは一切しないが、島の人々と触れ合って、美しい光景と笑顔を写真に撮りたい。

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みやげ物屋なのだろう、机に貝細工を置いて売っている。

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空港は柵があるかないかの施設で、地面がむき出しになっていた。

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飛んだり降りたりの繰り返しで、私は飛行機に酔って、どこかの空港で滑走路の端で吐いてしまった。滑走路といっても舗装などされていないから、草むらに吐いたのだ。小学生のころは遠足のバスによく酔ったが、物心ついてから乗った飛行機に酔ったのはあとにも先にも最初で最後だ。ウルトラクイズはいろいろな経験をさせてくれる。

日付変更線を超えて、朝のホノルルに着いた。当時でもすでにホノルルに行っていた者は多く、さらにはしゃぎすぎになるのだ。

この島伝いのフライトは今もあるのだろうか。あるいは別々の飛行機を乗り継いで、この島々をめぐれるのだろうか。小室周也さんと再び訪れる日を夢見ていたが、小室さんの死によってそれはできなくなった。

UA155便がグアムから島伝いにホノルルまで行っていると教えていただいた。ありがとうございます。
月水金でグアム発08:20、チューク(トラック島)、ポンペイ(ポナペ)、コスラエ、クェゼリン、マジェロ、ホノルル着02:55で5回乗り継ぎ14時間半かかる由。127150円。水曜日はコスラエには寄らない。
また、UA200便はグアムからホノルル直行で7時間半だ。
| クイズ | 18:13 | comments(0) | - |


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