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第2回アメリカ横断ウルトラクイズ 就活とその後
1978年秋、第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝した私は、放送の反響も大きく、ファンレターをいただいたり雑誌や新聞に紹介されたりした。




当時<クイズダービー>で大人気だった漫画家の故はらたいらさんとの対談を六本木の瀬里奈でしたこともあった。あのしゃぶしゃぶはおいしかった。

一方で、会社を辞めてウルトラクイズに出たのだから就職活動をしなければならない。名声と現実のギャップは大きく、それもまた私自身を悩ませることになった。
ちなみに辞めた建設会社の社長が放送を見て「これならいくらでも(会社を)休ませた」と言ったらしいが結果論である。

放送後のある日、ウルトラクイズの企画をしている番組制作会社のジャパンクリエイトの山崎将暉社長から電話があった。山崎氏とはウルトラクイズの打ち上げでも会っていた。「TBSやフジテレビからも、なんでウルトラクイズの企画をうちに持ってきてくれなかったのかと言われたが、あれは日本テレビだからこそできた番組です」と挨拶をしていたのが印象的だった。



山崎氏は私が仕事を探しているのを知っており「日本テレビにまずアルバイトで入り、その後正社員になる道がある」と、まずはアルバイトの口利きをしてくれるようで、日テレに入れるならこれ以上のことはないと、菓子折りを持って西麻布のジャパンクリエイトまで挨拶に行った。

マンションの一室みたいな会社で、ソファに座って山崎氏と話しをした。
ジャパンクリエイトは「笑点」の企画を長い間していると教えられ、意外だった。これはWikipediaにも書かれていない。
山崎氏は「仕事に行き詰った時は海に行ってボーっとするんです」とも話していた。
とにかく「よろしくお願いします」とお願いし、紹介されて日テレの石川一彦制作局長にもお会いしたが、その後芳しい返事はなく、別のルートで日テレの人にこの件を話したら「昔はアルバイトから社員になる人もいたけど、今はねぇ」ということだった。確か福留功男アナも、自伝によれば明大の学生時代から日テレでアルバイトをしていて社員になったと書いていたが、もはやそういうおおらかな時代ではなかったようだ。この話は立ち消えた。

ジャパンクリエイトの山崎将暉氏は第7回まで企画としてスタッフロールに名が出ていたが、第8回(1984年)からは名前が消えている。

さらに、ウルトラクイズの制作を請け負っていたテレビマンユニオンが社員を募集する広告を見て応募した。上智大学でおこなわれた選考会には多くの人が来て、中にはマスコミ就職対策の時事用語集を読んでいるおねいさんもいたけれども、そんなものは出題されなく、試験は受験番号の隣どうして組になって互いを取材して記事にするというユニークなものだった。筆記は通り、面接では懐かしい顔ぶれとお会いしたけれども、落ちた。

そして年が明けて新聞広告を見ていたら、新宿の小さな広告会社の求人広告が目に留まったので応募した。新宿なら近いし、地下道を通って雨に濡れないで通勤できる。
この会社の筆記試験は時の人を解説する文章問題で、武豊、北野武などが出て、たぶん模範解答だっただろう。役員面接になって待合室で和久田部長から「君が本命なんや」と聞かされ、難なく合格したので、春からその会社に勤めた。

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コピーライターとして制作部に勤務し、小さい会社だったけれども、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、イベントと一通りの広告プロモーションを経験し、クライアント業種も食品をメインに自動車、商業施設と多様な経験ができた。

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この会社では広告の基礎から応用までを学べて、とても感謝している。
大学は建築工学科だったが、自分のやりたかった広告の仕事ができるようになって、まさに自分の意思で歩みだしていた。



小さな会社で家族ぐるみのような付き合いだったが、今の時代ではどうなのだろうか。

この会社に営業に来た人と名刺交換をすると顔と名前が一致するようで「ウルトラクイズで優勝した北川さんですか?」とよく言われた。その中の一人に「実は私、ジャパンクリエイトに勤めていたんです」という人がいた。笑点の司会の、春風亭昇太に似ている人だった。
「山崎さんはどうしていますか?」と聞いたら言いにくそうに「大きなイベントを企画して、出資者からお金を集めたりしていたのですが頓挫して…」と、どこでもありがちな話が結末だった。ジャパンクリエイトはなくなり、山崎氏も姿を消した。海に行ったのだろうか。

9年間、この新宿の広告会社にはお世話になったが、もうするべきことはすべてしたと思い、1988年、求人広告を見て、神田にあった中くらいの広告会社に転職した。すでに結婚しており子供も生まれ、私としてはさらなるステップへ踏み出さなければならなかった。

新宿の広告会社はその後四谷に移転し、2013年に倒産した。メインクライアントがTOBで経営体が変わり、仕事が激減したからだった。神田の会社も合併を繰り返して被存続会社になったり存続会社になったりしているが、どちらの会社の人ともいまだに交流があるのはありがたい。
| クイズ | 19:20 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ 優勝は、ひとっつも偉くない
1978年10月1日日曜日、ニューヨークからのパンナム機は昼過ぎに成田空港に着いた。第2回アメリカ横断ウルトラクイズの旅は終わった。

成田空港には日テレ差し回しの車が来ていて自宅まで送ってくれるとのことだったが、優勝賞品の「家族とニューヨーク旅行」に、"家族はウルトラクイズと関係ない"と批判的だった私はずっとふてくされていた。そのため、その車には母と妹が乗り、私は乗らないでリムジンバスで一人で帰った。どこまでも卑屈で偏屈だった。

あとで聞いたらそのクルマはロールスロイスで、近所のおばさんがそれを目撃して、降りたのがうちの母だったからびっくりしたそうだ。

父に、頼まれたリンクスのゴルフセットを買ってきてやり、祖母や親戚にも一通りのみやげがあったはずだ。

祖母は、母が家を空けて自分を差し置いて天下のニューヨークまで行ったのははらわたが煮えくり返るほど腹立たしいことだったに違いないが、クイズの好きな孫が大きなクイズで優勝したのは内心「してやったり」と思っていたのかもしれない。
祖母は高等女学校首席卒業で、なんでも一番が好きな気位の高い人だった。

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けれども、帰国してしばらくして、放送があってからと思うが、急に祖母が「(ウルトラクイズに優勝したのは)ひとっつも偉くない」と言い出した。<ひとっつ>にアクセントを置いて、ののしるように何度も言った。これは意外だったが、その大元は三男の叔父の入れ知恵にあった。

要するに「クイズは知っているか知ってないかの知識だけのことであり、本来は思考や応用が重要であって知っているだけのことは偉くない」という論理だった。大学教授が言いそうなことだ。
無論これには反論できる。
クイズは知識を試すゲームだから知っているか知っていないかはもちろんだけれども、問題文を聞いて先読みしたり、どのような問題が出るのかを推察して考えているから、決して知っている/知らないだけのゲームではない。

しかしそれ以上に、身内が、孫が優勝したのだから「よかったねぇ」くらいの言葉があってもいいのではないか、叔父も。
百歩譲って、3位4位になった人に対して慰めるように「しょせんクイズなんて知っているか知ってないかなんだから、あんなやつみたいにクイズに夢中になっていないで、おまえは早稲田でちゃんと勉強して研究を重ね、人のためになる人間になれよ」ならあるかもしれない。

それを、優勝した孫にののしるように、批判して言うことはないだろう。

さらにニューヨークのヘリコプターシーンで福留アナが「家族(妹)と参加したまさにクイズファミリー」と紹介したものだから、祖母は「クイズファミリーなんてみっともない」と、それにも怒った。


私は生まれてから、母は嫁に来てから、ずっとこのような処遇を受けていた。いつもすることに、あらゆることに非難をされていた。
ほめて欲しいとまでは言わない。しかし自分のやっていることを認めてもよいだろう。それに叔父たちは私に口出しをしすぎたし、父もそれを容認してしまっていた。

今、祖父が死んだ歳を越えて生きていても、何をしても満足感がなく、気持ちが揺れ動き、40年前を振り返ってもウルトラクイズに優勝したことがよかったのかそうでなかったのか逡巡してしまっているのは、幼いころからの、何をしても祖母にとがめられていたトラウマがあるからだろうか。
屈折した性格に育った。
祖父がせめて私が小学生くらいまで生きて祖母の防波堤になっていたら、多少は違ったかもしれない。

しかし、父が勧めた建設会社を辞めてウルトラクイズに参加して優勝したことは、なにがどうであれ、私が自分の足で自分の進むべき道を決めたのであるし、クイズが趣味の人間としてこれ以上の喜びや名誉はなかった。クイズを通じて新たな人たちとの交流が生まれて、鉄道趣味ともども人の輪が広がった。40年経った今でも、ウルトラクイズに優勝したことが飲み屋での話題になり、一目置かれ、もしそうでなかったのなら、どういう人生を歩んでいたのだろうと思う。

ウルトラクイズの優勝は、単に好きなクイズで優勝したと言うだけでなく、まさに私の新しい人生のスタートであった。
どうもありがとうございました。
| クイズ | 18:23 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ 帰国の途へ
1978年9月30日土曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズの旅は終わり、私たちはこの日11時のパンナム機で帰国の途に就いた。

昨夜は、スタッフの井上雅子さんが勧めてくれたユル・ブリナーのミュージカル「王様と私」を鑑賞した。
「北川くん、これ観なよ、絶対いいから、こんなチャンスないから」

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このときのエピソードは、渡辺謙の「王様と私」に絡めて、井上雅子さんの思い出としてつづっている。英語なので細かいセリフ回しはわからなかったが、熱演は伝わってきた。
雅子さん、本当にありがとうございました。彼女は38歳の若さで世を去ったのだ。
もう一つ残念なのは、妹たちが時差ぼけで観られなかったことだろう。
その後、日本でも何度かミュージカルは見ているし、先日は宝塚デビューした。

29日朝、夢だったかもしれない3週間のウルトラクイズの旅が終わった。フィルムの最後は、エセックスハウスのウェリントン卿の間から見た、朝のセントラルパークの写真だ。

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前年の放送を見てウルトラクイズに憧れ、会社を辞めて参加し、まさか優勝するとは思っていなかったが優勝し、母と妹がニューヨークに来た。振り返るとのような出来事だった。
クイズが好きで「クイズ荒らしと呼ばれたい」と称しており、クイズ王になれた。
これは、夢が叶った以外の何ものであろうか。

でも、私が得たかったのはコレだったのか。
どんなことでも満足がいかず、マイナスに考え、自分を追い込んでしまう性格だった。
私は母たちが結果的に来てしまったことに対しても不愉快であり、不機嫌だった。
「親孝行でしたね、よかったですね、頭がいいんですね、イラストレーターなんですか」

優勝しても晴れ晴れとした気持ちになれない。名声に反して、どうであったらよいのかわからない、相反する葛藤があった。

不完全燃焼な気持ちをくすぶらせて、パンナム機はニューヨークを飛び立った。

| クイズ | 14:23 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークの休日
1978年9月29日金曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝した私は、「家族とのニューヨーク旅行」の賞品を獲得し、日本からやってきた母と妹と、セントラルパークに面した高級ホテルのエセックスハウスのウェリントン卿の間というスイートルームに宿泊した。

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スイートルームはホテルの部屋の中にさらに部屋が分かれている。家族や使用人が一緒に泊まれるようになっている。

居間だか応接間なんだかわからない部屋。

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そもそもの一部屋の面積が広いし、調度品も高級感があふれている。

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佐藤孝吉プロデューサーが「部屋(客室)でかくれんぼができる」と言っていたのもうなづける。まだ部屋がある。

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寝室もいくつもあって、ベッドも広い。

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トイレもキンキラキンで広い。落ち着かない。

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窓の外にはセントラルパークが広がっている。

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朝の散歩にでかけた。

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セントラルパークに面しているメトロポリタン美術館はおのぼりさんの必須の観光施設だろう。建物のなかにエジプトの遺跡があってびっくりした。

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渦を巻いているグッゲンハイム美術館。段差なく、絵画が展示されて歩いていけばグルグルと絵画鑑賞ができる。これは学生時代の西洋建築史に出てきた美術館だ。

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ニューヨークでは地下鉄に乗ってみたが、不安そうな母の顔。しかし2006年に家族で乗ったときにはまったく気にしないで乗れた。911後は治安がよくなったからだそうだ。

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最初からこの「家族を巻き込んだ賞品」に否定的だった私は、正直なところ、母たちが足手まといでますます不機嫌になった。
本来なら、めったに外出できない母をニューヨークまで「連れてこられた」のだから、もっと喜び、感謝し、一緒に楽しめばよかったのだろう。
しかし私にはそういう「心のゆとり」はまったくなかった。クイズが大好きで、ウルトラクイズに出て優勝できたこと自体がこの上もない喜びなのに、その喜びを享受できなかった。

自分の心の貧しさが、楽しむべきところをまったく楽しめない。これは40年経っても変わっていない。常に満足できず、不満ばかりが募る性格だ。


さきほど母に「あのときニューヨークに来てよかったの?」と聞いたら「よかったよ」と言ってくれたので、よいことをしたと思っておこう。

| クイズ | 21:10 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ 祝勝パーティで家族と会う
1978年9月28日木曜日、前日に第2回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝した私は、スタッフの石戸さんに貸衣装屋に連れて行かれ、タキシードを借りた。若干、サイズを手直しする必要があったので、あとから泊まっていたレキシントンホテルに届けてもらうことになっていた。貸衣装屋のオヤジは足が悪くて引きずっていた。ホテルに届けたのは若いモンだろう。

午前中はホテルの近所をブラついて時間をつぶしていたのだと思うが、まったく記憶にない。たぶん、石戸さんが撮ってくれたポラロイド写真。

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午後からタキシードを着て、ブロードウェイ44丁目のレストラン「サーディズ」に連れて行かれた。この店は今もトリップアドバイザーに載っており、多国籍料理の店らしい。まったく料理など、口にできなかった。

ここで佐藤孝吉プロデューサーから優勝旗を渡され、クイズ王らしくなってきた。
福留功男アナが「スペシャルゲストをお招きしています」というので誰かと思ったら母と妹だった。
ああ、ついに来てしまったんだと複雑な気持ちになった。母は私がそう思っていることを見透かしているからオドオドしているようだった。母は家に置いてきた口やかましい祖母の手前、ニューヨークに来ることもテレビに出ることもイヤだっただろう。気の毒でもあり、やるせない気持ちになった。私が優勝したからこうなってしまったのだ。

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そして優勝賞品の一部である、セントラルパークに面した高級ホテルのエセックスハウスのスイートルームであるウェリントン卿の間のキーを渡された。これは父が依頼したリンクスのゴルフバッグに入れて持ち帰った。



パーティではおねいちゃんがシャンパンを私に勧め、あまり酒は得意ではないが、これは飲むしかないので飲んだ。1杯、2杯と…。そうしたら母が脇から出てきて「もう飲ませないでください」と言った。これには驚いた。母は昨年の優勝者、松尾清三さんが飲まされすぎでヘベレケになった話を聞いていたし、息子が酒に強くないからそうしたのだが、とても恥ずかしくて参った。母が来たことが余計に不愉快になった。
のちに高村プロデューサーにこのシーンは放送しないでくれと頼んだら、聞き入れてくれたみたいでストップモーションで終わっていた。
もちろん、40年後では飲酒の強要になるからこんな撮影はできない。
この顔色を見ればわかるだろう。

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サーディスを出たらロールスロイスが迎えに来てくれて、これに乗ってエセックスハウスまで行った。途中までカメラマンが助手席に乗って撮影していたが、彼が降りたとたんに母が祖母がたいへんだったことを堰を切ったように話し出した。よく母がニューヨークに来られたと驚いたほどだ。
私は親孝行をしたのだろうか、親不孝をしたのだろうか。

エセックスハウスのウェリントン卿の間のダイニングルームで家族そろっての豪華な食事となった。

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料理を食べるシーンは撮影しているので十分に食べていない。パイ皮包みのローストビーフがすごくおいしかったのだが、ほとんど食べていないのでもう一度食べたい。

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裏スタッフを紹介された。
Ms.バーバラ・ロゾルフは現地のコーディネーターで途中からわれわれと行動をともにしていた。この写真をエアメールで送ったら丁寧な返事がきた。ありがとうございます。

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Ms.マーガレット・スマイロー、通称マージーはわれわれよりも先行してクイズ会場との交渉をしてくれていた。そして母と妹がニューヨークに着いて、時差ぼけで疲れているだろうと自分のアパートで休ませてくれた。私とはエセックスハウスではじめて対面した。ありがとうございます。

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そして井上雅子さん。彼女は最初通訳と思っていたけれど、アシスタントプロデューサーだった。英語ができて仕事ができて年上の美女で、彼女にあこがれた。そして彼女への思いは2015年のブログに書いたので、ぜひ読んでください。

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井上雅子さんの思い出1
井上雅子さんの思い出2
井上雅子さんの思い出3

エセックスハウスはその後ニッコーホテルズに買収されたが、今はマリオット傘下みたいだ。
1983年に森田敬和とニューヨークに行ったとき。

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2006年に家族と行ったとき。

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経営が変わっても存在してくれているのはうれしい。


私が「家族を呼ぶのを反対した」ことは何度も書いた。家族はウルトラクイズに関係ないからだ。そして家庭それぞれの状況があり、必ずしも急に家を空けるわけにはいかない場合もあるし、家族をさらしたくない事情もあるだろう。なんでこんな企画が通ったのか、21世紀から見ると明らかにおかしいし、20世紀でもおかしいと思う。
中には「ウルトラクイズの中で一番いい賞品でしたね」と言ってくれる人もいるし、このブログを読んだ人の中にはそういう恩恵を授かっておいて批判的なことを書くのに快く思わない人もいるだろう。
それは申し訳ないが、祖母を知らない人は気楽でいいもんだ。

母は嫁に来て以来、祖母にいびられ続けていた。母でなくても、父(長男)の嫁であったなら誰もがそうだっただろう。逆に弟である次男三男の嫁には甘かったので、時に親戚から母が誤解されていたときもあったけれど、一度次男の家に祖母を預かってもらったことがあり、叔母が「ようやくわかったわよ」と母の苦労を実感した。

祖母の晩年はボケて自分の息子もわからなくなったが、母だけは認識していた。
そして母は祖母に仕えた歳月以上の月日がたち、いまだに元気だ。
神様は平等」だと、母を見ているとつくづく思う。

| クイズ | 19:27 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークで優勝
1978年9月27日水曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズはついにニューヨークでの決勝戦となった。
対戦するのは私、北川宣浩と、1歳年上の間下由美子さんだ。

朝、二人はイースト川沿いのヘリポートへと向かった。ついに決勝地のパンナムビル屋上までヘリコプターに乗れるんだ!去年、松尾清三さんと藤原滋子さんがヘリコプターで向かうシーンをテレビで見て、なんてすごいクイズ番組なんだと心底ほれ込んだが、なんと、ついに自分が乗れることになった!
むろん、ヘリコプターに乗るのは産まれて初めてだ。



これは間下さんが撮ってくれた私が乗るヘリコプター。

そしてこれは私が撮影した間下さんが乗るヘリコプターだ。
今は亡き世界貿易センタービルを背景に飛んでいる。

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マンハッタンの中でもワールドトレードセンタービルはひときわ聳え立っていた。
あこがれのニューヨーク、世界の中心ニューヨーク、そしてウルトラクイズのニューヨーク。
何を見ても感動した。ここに私がいること自体が夢のようなできごとだった。今から思えばそれは偶然ではなく必然だった。

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そしてエンパイアステートビルを脇に見て、いよいよパンナムビル屋上に着陸…。

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あれ、あれれ…、ヘリコプターは引き返してもとのヘリポートへ帰っていった。
なんと、第1回もヘリポートに戻ってパンナムビルには降りていないらしい。昔は降りられたけど事故があって禁止になったそうだ。今ではそういう理由ならこの演出はできないな。

これが当時の遊覧ヘリコプター屋のカウンターでもらったパンフレットだ。
金額こそ違うだろうが、乗りたければ金さえ払えば誰でも乗れる。



そしてパンナムビルだったかほかの場所だったかでランチをしてからパンナムビルの屋上へエレベーターで上がった。

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クイズは圧勝だった。しかしそれ以上にスルーした問題が多く、相手がクイズを知っていれば負けていたかもしれない。怖くてボタンが押せなかった。正解できた問題もたくさんあった。スルーした問題はすべてカットされているから、勝ち進んだように見えているだけだ。
一方で、相手が「答えられない」という前提においては、確実なものに答えるのは戦法でもある。それにしてもスルーは多かったと思う。

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10問先取し、間下さんは答えたり間違えたりで結局0点だった。

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私は福留功男アナに乗せられて、パンナムビルの屋上で妹の名を叫ぶことになった。婚約者や妻がいたら間違いなく彼女の名前を叫ぶことになったのだろう。
さらに「これからどうする?」と聞かれ、会社を辞めてきたので「就職したい」と、思わず本音を言ってしまったが、これも想定された質問だったのだと思う。

ちなみにテレビ放送上は「無職」ではあまりにかっこ悪いので、当時からレイルウェイ・ライター種村直樹氏の著作にイラストを描いていたから「イラストレーター」という肩書きで出ていた。イラストレーターは確定申告もしていたからウソではないが、あまりに貧弱だった。
就職のハナシは回を改めて書く

まぁ、私が優勝するのはスタッフ全員、昨日から確信していたはずなので、ダラダラっと終わった。みんなから「おめでとう」と言われたけれど。

さて、決勝の模様は国際電話回線を通じて、成田空港最寄の成田エアポートレストハウスで待機していた私の母と妹、そして間下さんのご両親にも音声が伝わっており、勝敗がリアルタイムでわかって、勝ったほうがただちにニューヨークに向かうことになっていた。

当初、私は「家族はウルトラクイズには関係ない」と家族を呼ぶのに反対していたが、折れて、母にも来てもらうことになっていた。
それは口やかましい祖母を置いてくることであった。無関係の家族を巻き込んで数日家や仕事を空けさせることは我が家はもちろん、ほかの家庭でも、多かれ少なかれトラブルを引き起こしただろう。祖母は、母または父が家を空けるということだけで激怒した。
これらの祖母の言動は聞いた話だが、容易に想像がつく。私が帰国後の祖母については機会があれば書く。

母と妹は祖母から逃げるようにして日テレ差し回しのハイヤーに乗って麹町の日本テレビに行った。そこでスタッフから状況を聞かされて、インタビューシーンなどを撮影し、間下家ともどもバンで成田空港に向かった。
妹は体調が悪くなり、何度もサービスエリアに寄ってもらったそうだ。ホテルに夕方着いて間下家ともども食事となった。間下父はスタッフに載せられていたのか、ボストンの決勝で先勝したと聞かされていたのか「こうなったら五分五分ですな」と強気でいたらしい。

そしてまた仮眠ののち、深夜に起こされてクイズの決勝の音声を聞かされた。今なら映像も入るだろうが、当時は音声だけで精一杯だっただろう。こんなこと程度に衛星は使えない。

うちが勝って、母と妹はこれからニューヨークに行って来るフリをして、ホテルの部屋に戻った。
そして一泊し、翌日もこのときと「同じ服で飛行機に乗ってください」と言われたそうだ。
| クイズ | 21:52 | comments(0) | - |


第2回アメリカ横断ウルトラクイズ ボストンの苦戦
1978年9月26日火曜日、第2回アメリカ横断ウルトラクイズは、ボストン郊外で4人での準決勝になった。昨日の朝、クイズが急に中止になったのでどうしたものかと思っていたが、今日は早朝4時から起こされて、目隠しをされてタクシーで会場へと向かった。

タクシーはでこぼこ道に入っていき激しく揺れた。しかしあとで知ったらそれは荒地を走っていたのだった。
目隠しのままクルマを降りて、手を引かれて4人は並べられた。外では「ゴ〜〜〜ッ」という音が断続的に聞こえてくる。なんだろう。

福留アナの合図で目隠しを取ると、その音の正体は熱気球だった。熱気球のバーナーの音だったのだ。

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4機の熱気球があれば、それに乗ってクイズをするのはわかる。熱気球バルーンダウンアップクイズは○×クイズで、3問先取で地上に降りられるが、間違えるとだんだんと上昇していき、罰ゲームはそのまま飛んでいってしまう。

昨日は風があって熱気球が飛べなかったそうだ。フワフワ飛んでいくのはともかく、一定の場所・高度でとどまるのはかなりの技術が必要のようだ。

1問目、「ボストンはマサチューセッツ州の州都ですが、マサチューセッツという曲を歌ったのはビージーズである」にいきなり私だけ間違えた。正解は○。
熱気球のバーナーの音で福留アナの読み上げる問題がスピーカーから聞こえなかったときのために、われわれは巨大なトランシーバーを渡された。さらにアメリカのランチボックスに問題用紙を入れてロープで引き上げ、それを見てもよい。そのランチボックスはあとでもらってしばらく妹が使っていたが、錆びてきて現存しない。



2問目以降は順調に正解でき、全問正解していた間下由美子さんが先に勝ち抜けた。
熱気球のゴンドラから彼女が地上に降りて福留アナと話しているのが見えた。

ここまで順調に勝ち進んできたのに、最後の最後で負けてしまうのか。1年前、松尾清三さんがパンナムビルの上で踊る映像を見て、ウルトラクイズにあこがれてウルトラクイズに出たい出たいと願い続け、第2回の放送が決まって応募用紙を祈るように取り寄せて応募し、会社を辞めてまでして出場したのに、なぜ神は私をもてあそぶようにして最後の最後で見捨てるのか。

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しかし奇跡的に内田貢市君が1問間違えてくれて同点になり、互いに3問先取で二人は着地した。そして同点決勝になった。
「メリケン粉とうどん粉はまったく同じものである」
内田君は×、私は○でどちらかが正解だ。

正解は○で、私がニューヨークに行けることになった。
うれしかった。
勝って当然ではない。やっと勝てたというのが正直な気持ちだ。
どんな物事でも、過程より結果が重要なのだ。最後に勝たなければ、それまでの過程は無に終わる。

パイロットたちと握手をしてゴンドラから降りて、福留アナの元へ向かった。
間下さんは私を出し抜いて晴れやかな表情をしている。

佐藤孝吉プロデューサーが福留アナの脇でしゃがみながら「宿命の対決、宿命の対決」と言ったので福留さんはそれを拾って「いよいよ宿命の対決だねぇ」と言ったが、いったい何が宿命なんだと思った。

私と間下さんはそのままホテルへ戻ったが、バルーンで飛んでいった内田君と山口幸江さんはどうなったのだろう。

夕方の飛行機でニューヨークに向かい、福留アナと間下さん、私の三人は並んで座り、福留アナからの取材(ヒアリング)を受けた。
ニューヨークのヘリコプターでしゃべるセリフは、このときの取材が元になっている。
「普通の人はテレビで野球を見て一喜一憂するけど、うちはクイズ番組を見て一喜一憂する」などはこのとき私が話したことだ。

このときからすでに
「テレビ番組に頼らないクイズ」
「雀荘のようにクイズがいつでもどこでもだれとでも楽しめる施設」
「クイズをスポーツ試合のように実況する」
「プロのクイズプレーヤーやクイズ解説者が登場する」
「クイズの結果が翌日のニュースで報道される」

などの妄想を抱いていたけれど、40年経っていずれも実現して、それに携わってくれた人たちにとても感謝している。

勝者の二人はニューヨークの古い古いレキシントンホテルの別々の部屋に泊まった。男女だからでなく、同性でも決勝前日は別々の部屋で緊張感を高めるのだろう。暗い廊下に黒人のメイドがいて、よく見えなかった。今調べると1927年開業とのことで、1978年時点ですでに50年経っていたのだ。2013年にリノベーションされて、トリップアドバイザーの評価はよい。

スタッフたちと一緒にラーメン屋に行って味噌ラーメンと餃子を食べたが、ねっとりとしておいしいものではなかった。2006年にニューヨークに行って、別の店だと思うが味噌ラーメンと餃子を食べたら日本で食べるのと遜色のないおいしさだったので、30年の月日はニューヨークの日本料理店を進化させたのだ。

明日はいよいよ、夢にまで見たニューヨークでの決戦だ。
| クイズ | 18:58 | comments(0) | - |


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