視聴率だけはよかったNHK朝の連続テレビ小説「
梅ちゃん先生」。本放送が終った10月にはスピンオフドラマ
『梅ちゃん先生〜結婚できない男と女スペシャル〜』が1時間ずつ2話にわけて放送された。
スペシャルでは昭和37年11月までの物語で、安岡梅子(
堀北真希)の医専時代からの仲間、松岡敏夫(
高橋光臣)、沢田弥生(
徳永えり)、山倉真一(
満島真之介)をメインにした展開で、結局、弥生と山倉が結婚することになり、それに夫信郎(
松坂桃李)の不倫疑惑を添えての
ドタバタ恋愛コメディだった。
これは楽しめた。
こういうどうでもいい話は尾崎将也の真骨頂だと思う。これまで
バカだアホだと「梅ちゃん先生」を批判し続けたが、それは番組コンセプトが「戦後からの復興を震災からの復興に重ねる」「地域医療に貢献した女性医師」のような大上段に構えているにしては、内容がまったく伴わない違和感だらけだったからである。
NHK制作プロデューサーや編成の方向ミス、ボタンの掛け違いだと思うが、視聴率が良かったからなんでも良いことにしてしまっているのだろう。
さて、スペシャルは一種の後日談だったが平成24年にあの登場人物たちはどうしているのだろう。半年間、バカだアホだといいながらも実は楽しませていただいたお礼と罪滅ぼしに、さらに罪を重ねることになるのだろうが、勝手に平成24年版を妄想してしまおう。
主役は長男の
安岡太郎である。あえて言うなら「たろちゃん社長」?
そう、太郎は54歳の仕事盛り。
安岡製作所の三代目社長になっているのだ。
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平成24年9月、大田区本蒲田の、今では登記上の本社でしかない安岡製作所の社長室(元の工場)で、社長の安岡太郎は久しぶりに帰国したヤスオカベトナムの社長であり安岡製作所の専務である
佐藤光男と、ハイビジョンテレビに映る中国の反日暴動をため息交じりに見ていた。光男は74歳になっている。
「先代は賢明でしたな、中国ではなくベトナムを選びました」
光男がぼそっと言った。
「ああ、そうですね」
太郎はうなづいて、壁にかかる先代社長つまり父親の安岡信郎の写真を見上げた。先々代の祖父
幸吉の写真も飾られている。
先代の信郎は2年前、平成22年に83歳で亡くなっていた。
昭和39年10月1日、
東海道新幹線が開通した。高速台車に使われるシリンダの部品を作った安岡製作所の技術は認められ、大量に生産されることになった新幹線車両部品はもちろん在来線の部品製作も舞い込み、銀行も手のひらを返したように融資するようになって株式会社に改組、多摩川を渡った川崎市高津区に大きな工場を建てるにいたったのだ。
当時の社長、安岡信郎は光男を大学の夜間部へも進学させ、光男は工場経営を学んで川崎工場建設にも力を発揮した。用地取得や工場建設は加藤の伯父の会社が採算度外視で引き受けた。木下(
竹財輝之助)は専務取締役川崎工場長として70歳まで働き、郷里に戻った。
川崎工場では台車そのものを作ることになり、国鉄のみならず私鉄車両やヨーロッパの鉄道車両会社からの注文も増えた。輸出には竹夫伯父(
小出恵介)の会社が尽力してくれた。さらに栃木県真岡市の工場団地に第2工場を建てるまでになったのである。
YASUOKAといえば
鉄道台車の世界的メーカーに育っていた。
太郎は父信郎に似て機械の分解が好きだったが、母方の祖父
下村建造にも似て「お勉強はできた」ので、帝都大学工学部機械工学科に進学した。卒業後は大手の鉄道車両製造メーカー(日本車両とか)に就職したが、祖父幸吉の死を契機に安岡製作所に勤めることとなった。あのとき、幸吉の遺体にすがりついてだれよりも大声で泣いていた"光男にいちゃん"の姿を、太郎は今でも鮮明に覚えている。
一方で弟の
新(あらた)は母梅子の母校とも言える
蒲田医科大学に入り、内科医となって蒲田第一病院に勤めていたが、母が65歳になった平成6年に引退すると言い出し、安岡医院を継ぐことになった。
すでに母を"梅ちゃん先生"と呼ぶ年上の患者たちはあらかた亡くなって、今では梅子は"おおせんせい"と呼ばれている。
太郎は、加藤の伯母(
ミムラ)や下村の竹夫伯父からもかわいがられ、親世代が亡くなってもいとこたちと交流を続けている。
梅子は父建造から
「自分の仏壇を置く」、
「下村の表札を出し続ける」
を条件に、本蒲田の下村の屋敷を受け継いだ。本来は跡取りの長男竹夫も快く応じた。
昭和60年に医院ともども建て替えた時、大きな広間はリビングとして引き続き用意し、親戚一同が集まる場として今でも活用している。
その中心が母梅子になったことに時の流れを感じる。
梅子を訪ねるのは親戚だけでなく旧友の
沢田弥生も頻繁に遊びに来る。二人とも83歳になるが、たいへん元気で杖も不要だ。
山倉は長男であったが沢田家の養子になり沢田医院を継いだ。弥生は研究を続け帝都大学医学部名誉教授にまでなった。引退後は「山倉さん=梅子と弥生の会話では未だにこう呼んでいる=の手伝いは息子がしてくれるから=弥生の息子は帝都大学医学部卒=私は遊ぶの」と、引退した梅子と小旅行や茶飲み話を繰り返している。
「新ちゃん=周囲は"あらたちゃん"ではなく"しんちゃん"と呼ぶ=も昔の梅子のように町の人たちに親しまれているようだし、よかったわね」
「蒲田第一病院時代の患者さんが逆にうちに来てくれて助かっているようよ」
ちなみに松岡敏夫は独身を通し、20世紀の終り平成12年に梅子たちに看取られた。
昭和の終り、安岡製作所の海外向け生産を一手に引き受ける海外工場建設の話になった時、父信郎は銀行の勧めで中国や
ベトナムの現地視察に奔走した。多くの同業者は中国へ投資したが、信郎は
「どうも中国人は信用ならない。腹の底で日本人を敵視している。その点ベトナム人は心の底から日本人を尊敬している」
と、「ベトナムなんて"戦後"間もないじゃないか」と揶揄する同業者の声に背いてベトナムに工場を建てたのである。
「
俺たちは戦後の焼け跡からここまで育ったんだ」
と信郎はきっぱりと言った。
今、日本は大きな不況にあえいでいる。
だが中小企業ではあるが株式会社安岡製作所の経営は安定しており、信郎や太郎は何度も雑誌やテレビ(がっちりマンデーやWBS)で紹介され、信郎は叙勲まで受けた。
社是は
「ものづくりで日本と世界の発展に貢献をする」
「ものづくりは努力の積み重ねでのみ成立する」
「ものづくりは顧客に喜ばれてこそ価値を得る」
である。
安岡製作所は鉄道台車のトップメーカーではあるが、太郎の夢は航空機を飛び越して
宇宙に向いており、息子の
幸造は
JAXAに勤めている。
佐藤光男専務は高齢を理由に引退をほのめかしているが、まだまだ安岡製作所の"番頭"として力を貸してほしいと慰留しており、
千恵子夫人にも母梅子を通じてそれとなく頼んでいる。