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天皇陛下、ありがとうございました。
天皇陛下が退位されました。

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平成の31年間、常に国民に寄り添い、国民と幸不幸を共にされ、平成になっての自然災害地の被災地みならず、過去の戦災地にも何度も訪れていただき、励まされ、慰め、慰霊され、世界の平和のためにも、それはそれは大きな力になりました。

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今回の退位は9年前からお考えになっていたと聞きます。理由は高齢だけでなく、昭和天皇の晩年の意識のない時期や、香淳皇后の認知症などを目の当たりにされた経験もあったそうです。

確かにあの昭和最後は…、昭和最後などと言えなかったのですが、自粛自粛の3か月半を思い出すと、あの暗い時代が再びきて、国民生活に悪影響を及ぼすことを考えると、今回の退位は「お祝いムード」で、国民は陛下への謝意に加えて、新しい時代を晴れやかに迎えられる、おめでたい気分にさえなれました。

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「国民に寄り添って安寧を祈る」陛下の最後の思し召しは、あの暗かった昭和最後の日々を避けたのではないか、国民を思う最大で最後の気持ちを表されたのが生前退位ではなかったのかと、私は考えます。

元気なうちに引くのがどんなにか大変な決断で、そしてどれほど有益で多くの人々のためになるのかと、改めて感じます。

この深い御心に感謝し、尊敬申し上げます。そのような陛下のいらっしゃる日本を誇らしく思います。

天皇陛下、皇后陛下、ありがとうございました。
| ニュース | 18:22 | comments(0) | - |


ノートルダム大聖堂の火災
パリのノートルダム大聖堂が火災になり、尖塔が崩れ落ちた。
その後のニュースで、美術品の多くが消防士たちによって運び出されたし、パイプオルガンも甚大な被害はなかったそうだ。
富豪たちが再建のための寄付合戦をしており、すでに900億円が集まっているらしい。

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産経ニュースより。

私は、言うのも恥ずかしい建築工学科の出身で、西洋建築史の授業にゴシック建築の代表として必ず登場し、桐敷眞次郎先生からいろいろ教わっているはずだ。全部忘れたが。

私は石造りの建築物のため、火災に強いと思っていたけれど、屋根部分と尖塔は木造だったそうだ。確かに石を積んで屋根にするのは難儀だろう。
グーグルアースの3Dで見れば、なるほど木造の屋根だとわかる。今回、知った。

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私はこれまで3回ノートルダム大聖堂に行っている。

最初は1977年パネルクイズアタック25で優勝して初めての海外旅行がパリだった。至れり尽くせりの観光・食事つきの旅行で、同行者もみんなアタック25で優勝した人たちだったので、共通の趣味、テレビで見ていた人!で楽しかった。

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次は1980年にレイルウェイ・ライター種村直樹氏と、開業間もないフランスの新幹線TGVに乗りに行ったとき。

セーヌ川の対岸から。
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おなじみの正面から。
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内部の美しいステンドグラス。
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尖塔の付け根のアップ。
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大気汚染で黒ずんでいたため、足場を組んで洗浄作業をしていたらしい。工事が火災の原因になったという説もあって、法隆寺金堂の火災を思い出した。

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法隆寺金堂内の四方には美しい壁画が描かれており、切手になるほど当時の日本人になじみのある文化財だったが、壁画が経年劣化でポロポロと破損していたので、画家により模写が行われていた。

1949年(昭和24年)1月26日、法隆寺金堂は火災により壁画の大部分を失った。釈迦三尊像なども紅蓮の炎に包まれたが、銅製のため焼失をまぬかれた。
画家が寒さをしのぐ電気座布団が火災の原因だったという説もある。

これを機に文化財保護法が制定された。
焼損壁画は非公開で法隆寺に保存されており、たまに朝日新聞社主催で公開される。この金堂の写真は1994年の公開時のもので、壁画は撮影禁止であった。箱に入れられて、黒ずんでいた。

法隆寺金堂の火災の翌年、1950年に京都の金閣寺が放火により焼失する。三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「金閣炎上」はそれを題材にした小説で、映画化もされている。

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炎上前の金閣寺は国宝だったので国費で再建されたが、再建された今の建物は国宝でない。

ノートルダム寺院に話を戻すと、最後に行ったのは2010年だ。

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ステンドグラス部分を外から見る。外からでも美しい。

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内部ではなにやら儀式が行われていた。

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ステンドグラスは宗教的な絵が描かれていて、それぞれに意味があるのだろうが、なんだかわからないのが情けない。

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正面から見上げる。

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焼け落ちた尖塔。たしかに木製かな。

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背面から見ると、肋骨のように出ているフライングバットレス(飛び杼)が美しい。この建築用語はいまだに覚えている。

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フランス政府は2024年のパリオリンピックまでに再建すると言っているが、専門家の中には50年かかるという人もいる。しかしレーザーによる3Dデジタルデータがあるので、このデータが役に立つのは間違いない。

フランス国民の悲嘆は想像つかないが、早くあの美しい姿に甦ってほしいと祈るや切。

  
| ニュース | 18:36 | comments(0) | - |


令和 新元号発表と平成改元の差
天皇陛下が退位を表明し、ご存命中に改元、新天皇(徳仁皇太子殿下)が即位される。
平成が「意図的」に終わる。明治以来、一世一元、具体的には天皇の死亡とともに改元がなされるのが、今回は譲位により改元となる。
2019年4月1日午前11時41分に新元号「令和(れいわ)」が発表されて、5月1日から施行される。

テレビ各局の新元号報道特番を見てみよう。
NHKは手話通訳のワイプが入って、新元号の額が隠れた。すぐにワイプは消えたが、私は一瞬<命和>かと思った。これは失態だ。
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日テレ。
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よく見ると、菅官房長官の額を持つ手がやや上向きになって今なら「令和」と読める。
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テレビ朝日。
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TBS。
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なんとテレビ東京が通常番組を退けて、しかも生字幕入りで放送したのは驚いた。
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フジテレビ。
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クイズ番組で活躍するメイプル超合金のカズレーザーの本名が金子和令(かずのり)と始めて知ったが、<かずれい>と呼ばれていたのが芸名になったのだろう。
ズバリ、加藤令和(れいわ)と読む人や、80歳になる兵庫県の仲西令和(よしかず)さんという人も実在して、子どものときから<れいわ>と呼ばれていたらしい。ほかにも令和と書いて「れお」「れわ」という子もいて、キラキラネームなのだろうが、名付け親はすごい。



平成最後」という言葉はちまたではもちろん、百貨店の売り出しコピーやテレビ番組などに頻繁に使われ、お祭り気分で喜ばしいことと捉えられているが、「昭和最後」は悲惨だった。そもそも「昭和最後の…」なんて表現は口が避けても言えなかった。それは天皇の死を意味していたからだ。

昭和62年(1987)9月22日、天皇陛下は開腹手術を受けられた。昭和天皇とは今だから言える表現で当時は「天皇陛下」だった。昭和天皇とは亡くなってから付けられた諱(いみな)である。だから当時「昭和天皇」などと呼ぶようならば国賊扱いだった。

その後、回復されたがだんだんと体調はすぐれず、昭和63年(1988)9月19日、大量の吐血をされ、救急搬送された。多くの国民はもうだめだと思った。まもなく天皇が亡くなり、明仁皇太子殿下が天皇陛下に即位され、改元が行われる。政府・自治体関係者、マスコミ、そして国民はそれに備えた。
朝日新聞は「がん」だと報道したが、がん告知には慎重な時代であったため、存命の天皇陛下がお読みになるかも知れず、他紙はその情報をつかんでいたけれども、報道を避けた。のちに腺がんと公表された。

それから、戦中以来、二度目の昭和の暗い時代に突入する。
天皇陛下がいつ死ぬかわからない。だが、その日がなかなか来ない。
そのため、テレビ番組やイベントで派手な歌舞舞曲は敬遠された。歌手の五木ひろしは大規模な結婚式披露宴を行う予定でいたが、キャンセルした。式場のホテルは仕入れた大量の赤い海老が残った。
日産自動車のCMで歌手の井上陽水が「みなさん、お元気ですかぁ」と訴えるコピーはこの部分の音声が消された。
テレビはいっせいに昭和を振り返る番組を放送しだしたので、ほとんどが白黒だった。当時はまだハイビジョンになっていない。
これらは「自粛」と称された。このあと自粛は半年近く続く。

昭和63年(1988)の秋以降、いつ天皇が亡くなるか、それが密やかに、そして誰もが気にした。
私は広告会社に勤めていたから、天皇陛下がご病気と戦っているのに不敬な広告は出せない、そしてもし亡くなったら広告を停止したりイベントをキャンセルしなければならない。そのための代案というか差し替えというか、来るべき日、Xデーに備えた。ちなみに(香淳)皇后も体調がすぐれず、皇后が亡くなるのはYデーと密やかに呼ばれていた。

ニュースは陛下の吐血や下血量、血圧などを毎日報じた。秋から冬に変わり、寒くなってきたが、皇居前からコートを着たままの報道は不敬とのことで、アナウンサーはコートを脱いで報じた。ふだんのニューススタジオでも、アナウンサーたちは紺や黒の地味なスーツを着ていた。ネクタイは黒は亡くなった服喪と同義になるため避けたが、地味な色合いであった。

年末のNHK紅白歌合戦は放送されない可能性もあった。紅白というめでたい色合いが不敬とされたのだ。紅白の色合いを薄めて、鳴り物も控えめにして歌番組を放送した。
民放は「ゆく年くる年」を全局同時放送していたが、これも放送しないかもしれないと言われた。おそらく芸能人が司会を請け負うことすら、不敬とされただろうが、西田敏行が司会をして「今年も良い年になりますように」を連発した。

もう一つ、年末恒例の「新語・流行語大賞」はだれがどう考えても「自粛」以外になかったが、この言葉は審査対象からはずされた。新語はロシアのペレストロイカ、流行語は大河ドラマから「今宵はここまでに…」になったが、調子抜けをした。

年が明けて昭和64年(1989)になった。年賀状に「おめでとうございます」と書くと不敬と言われたので、生命保険会社は年賀状そのものを自粛した。多くは「迎春」という表現を使った。

そして松が明けた1月7日土曜日、朝からテレビ各局はあわただしかった。特別編成で「天皇陛下ご危篤」を伝えた。4時過ぎに血圧が急激に降下してご危篤状態になったとのことだった。官邸は「緊急連絡室」を設け、宮内庁や各省庁との連絡役を設置した。
竹下総理は吹上御所にお見舞いに行かれたが、6時50分に出てきて「拝謁をしてまいりました。静かにお休みでした」と語ったが表情はこわばっており、記者の「ご病状はいかがでしたか」という問いかけに「伺っておりません」と小さな声でパッくれた。
天皇が(すでに)亡くなったんだと、多くの国民は察した。

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7時55分になって、藤森宮内庁長官が崩御を発表した。ご臨終は6時33分とのことだった。87歳。
土曜日で会社は休みだったが、緊急出社した者もいただろう。

そこからテレビ各局は政府の動きや過去の天皇の映像などをこぞって放送した。過去の映像は何度も放送されていた白黒である。ネタは尽きていた。
当時、幼かった子供から「"昭和"は色がなかったの?」と聞かれたのがカルチャーショックだった。白黒映像ばかりで、町やモノ、人に色が付いていないのだと思ったのだ。「いや、色はあったけれど古いカメラは色が映せなかったんだ」と答えたが。

私はビデオカメラを持って街に出た。世田谷区の私鉄駅前でも「天皇崩御」の号外を配布していた。

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駅貼りポスターはすべてはずされた。
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駅の売店で酒類の販売は自粛された。
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旅行会社は営業を自粛して臨時休業になった。
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渋谷のパタパタの広告は、見えないように三角柱が途中で止められた。
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皇居前では服喪の記帳が行われた。
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テレビのCMも大部分が自粛になったので、特番でCMなしか、本来CMが入る枠には公共広告機構のお知らせが放送された。東日本大震災直後のTVを思い出していただければいいだろう。
私はショッピングセンターのプロモーションを請け負っており、Xデーのときはポスターや懸垂幕をはずしたり、黒い半旗を掲げる準備をしていて、それを実行した。国旗や黒い喪章は秋から急激に売れていた。

東日本大震災のときのテレビのピンポーンピンポーンという警告音は昭和天皇崩御以来だった。

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さて、平成新元号発表は小渕官房長官の額を掲げるシーンが今日も何度となく放送されたが実際はどうだったのだろう。当時のNHK総合テレビのビデオが残っている。

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スタジオではのちに高知県知事になるNHK記者の橋本大二郎氏や専門家(今日も出ていた所功先生)がどのような元号になるか、過去の例を出して解説をしていた。このあたりは今回と同様だ。

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午後2時36分「新元号決まる」テロップがピンポーン音ともに流れた。



大勢の人に囲まれて小渕長官が登場する。いかにあわただしい元号決定かわかる。

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当時も新元号については前々から検討されていたに違いないが、それに比べれば今回は十分な検討時間があったし、なにより天皇陛下はご存命なので、余裕度はまったく違う。

小渕長官は席に着くと舞台の上手(観客から見て右側、本人の左側)を盛んに気にする。額を持った人が「どうしましょうか?」とでも言っているように近づく。

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そして紙を読み上げ、新元号平成(へいせい)が閣議決定したと伝え、おなじみになった額を掲げた。

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記者会見場内は資料の用紙を配る役人の頭がテレビに映る。

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四書五経から取ったものだと小渕長官が説明し、質疑応答になったがどのような案があったか、提案した専門家は誰かといった質問には答えなかった。

生前退位や即位1ヶ月前の元号発表にはさまざまな意見があるが、私は今回の、特に1ヶ月前の新元号発表は良かったと思う。カレンダー業界はもっと早くから発表して欲しいと要望していたが、半年も前から発表されてはありがたみが薄れるし、31年前にさんざん自粛をしていたマスコミはむしろはしゃいでいた。報道特番も災害や大事件と違って、緊張の中にも楽しさがあった。

200年に一度の出来事で、誰もこのはしゃいだ経験は二度と出来ない。
新たな気持ちで日本の新しい時代に踏み出したい。

  
| ニュース | 18:54 | comments(1) | - |


西日本豪雨災害 芸備線・福塩線の復旧は1年以上
7月上旬の西日本豪雨は死者200人以上を数え、家屋は崩壊し、各所の交通は寸断され、しかもその後の猛暑で被災者の心労疲労はいかほどかと心配する。

特にこの1、2年、西日本を中心に旅行をしてきたので、「あそこがああなったのか」と、余計に親近感が湧いて、気になってしまう。
お見舞い申し上げます。

JR西日本の被害も甚大で、7月18日の社長会見で復旧状況が見えてきた。


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芸備線狩留家(かるが)〜備後落合間は、運行再開まで少なくとも1年以上を要するという見通しが示されており、不通区間の中ではもっとも深刻な状況となっている。
白木山駅—狩留家駅間では鉄橋の橋桁が流失した(写真は時事通信社より)。



そのため、三次(みよし)駅から狩留家駅が不通になっている。

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備後落合駅は山間(やまあい)の木次線と芸備線の乗換駅で、観光名所もないことから鉄ちゃんでないと訪れることはないだろう。

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その木次(きすき)線はスイッチバックが有名で鉄ちゃん推薦の路線だが、出雲横田駅から備後落合駅にかけて不通になっている。出雲横田駅は大社造りの立派な駅舎だ。

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幹線の山陽本線も寸断されており、三原〜白市間が11月中、白市〜瀬野間が10月中、瀬野〜海田市間が8月中旬、柳井〜下松間が9月末、下松〜徳山間が8月1日に運行再開の見込みとされ、11月中に全線復旧する見込みとなっている。JR貨物も山陰本線に迂回するなどの処置をしているようだ。

徳山には4月に泊まった。

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いっぽうで、岡山県の倉敷市真備町は小田川の氾濫で大きな被害が出たが、観光で有名な倉敷美観地区とは離れている。美観地区では観光客のキャンセルが相次いでいるらしいが、市町村合併で倉敷市に併合されてしまった弊害の風評被害と言えよう。しかし、いかに美観地区が無事であっても、旅行に行く気分にはならないだろう。

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おそらく、観光関連業者への補助金事業(クーポンなど)が行われると思える。これまでも被災地域によく適用されている。

山陽本線の支線で、三原駅(広島県三原市)と海田市駅(広島県海田町)を結ぶ呉線は三原〜広間が2019年1月中、岩国駅(山口県岩国市)と櫛ケ浜駅(山口県周南市)を結ぶ岩徳(がんとく)線は10月中の再開予定とされており、呉線の被災が深刻であることを物語っている。

途中にある竹原は、ニッカウヰスキーの創業者で朝ドラにもなった「マッサン」のふるさとで、レトロな町並みで知られるが、夏の観光客は激減だ。

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そして呉駅最寄りの大和ミュージアムも営業時間を短縮している。

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瀬戸内海の孤島で、古い街並の御手洗で知られる大崎下島は無事だそうだ。昨年夏に家から車で訪れたので観光協会に電話をしてしまった。

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呉市からかかる橋も無事だが、蒲刈島で一部迂回になるそうだ。

それにしても気になるのは芸備線福塩線の復旧に1年以上かかるという点だ。すでにかんさんとしており乗降客は少なく、三江線が3月に廃線になったように、災害での復旧をあきらめて、そのまま廃線にならないかと勘繰ってしまう。

住民の生活の安寧が第一だけれども、人やモノの交流に鉄道や道路は欠かせないから、キチンと復興してほしい。

  
| ニュース | 11:30 | comments(0) | - |


下山事件 69年目の夏 下山定則国鉄総裁怪死事件
今から69年前の1949年(昭和24年)7月5日、初代国鉄総裁の下山定則氏が行方不明になった。当時の日本は敗戦により連合軍の占領下にあって、下山総裁は米軍から国鉄職員の大量人員削減を命じられていた。前日も米軍担当者が大田区にある私邸に乗り込んできたくらいだ。

7月5日朝、いつもどおり下山は公用車ビュイックに乗って自宅を出た。普通はそのまま丸の内にある国鉄本社に行くのだが、途中で三越に寄って車を待たせ、行方不明となってしまった。国鉄本社では秘書が出迎えに立っていたがいつまでたっても公用車が来ないので私邸に電話をしたり、大騒ぎになった。
そして夕方のラジオニュースで総裁の行方不明を知った運転手は三越内を探したが総裁の行方は知れず、国鉄本社に連絡をしてようやく総裁の不明が知れるところになったのだ。

明けて6日未明、総裁は常磐線の北千住〜綾瀬間の線路上で死体で発見された。
当初は自殺とみられたが、生体轢断に見られる生活反応がなかったため、死後轢断、つまり他殺されて線路上に運ばれ、轢断されたという他殺説が浮上した。
以後、医学界やマスコミ界をあげての自殺他殺説が入り乱れ、こんにちに至るまで真相は明らかになっていない。
他殺説のほうが不謹慎ながらハナシとしては面白いので、何冊もの研究書が出ているし、ネットでも詳細な解説をしているサイトが多数ある。

下山国鉄総裁追憶碑が死体発見現場の近くにひっそりと立てられている。埋め込まれていると言ったほうが良いかもしれない。

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場所は東武線小菅駅から東京拘置所まで歩き、

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門の前をJR常磐線方面に歩いたガード下の親水公園の脇だ。

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当初は事件現場に建てられていたが、高架工事などでこの場所に移設された。



実際の事件現場はちょっと上野よりに行ったところと言う。このあたりだろうか。上を横切るのは東武線で、当時も東武は国鉄常磐線をまたいでいた。

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東武線から現場付近を眺める。当時とはすっかり光景が変わっている。

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ここまで歩いたついでに帰りは五反野駅まで行ってみた。
下山らしき人物が五反野駅前の末広旅館で休憩したという。他殺説を唱える人は影武者だったと理論づけている。

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末広旅館はこの辺りにあったらしいが、痕跡も残っていない。

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下山事件は謎が多く、簡単に自殺と結論付けられるものではないが、現代の医学や捜査技術をもってすれば、真相は明らかになったかもしれない。

常磐線は日暮里駅から北千住駅まで鋭角なカーブを描いて行く。今ではその上に日暮里・舎人ライナーが走っている。

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下山事件の真相どころか、そういう事件があったことすら知らない人が増えた。

  
| ニュース | 21:55 | comments(0) | - |


JR留萌本線と札沼線、根室本線、日高本線の一部を廃止へ
JR北海道は国交省や北海道と協議し、単独では維持困難とする12線区のうち札沼線など4線区について廃止する方針を示した。

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(HTBニュースより)

具体的には地元と協議のうえ、
留萌本線(全線)
札沼線(北海道医療大学〜新十津川間)
根室本線(富良野〜新得間)
日高本線(鵡川〜様似間)

の2020年度の廃止を目指す。

ちょうど一年前の昨年6月、この廃止を見越して北海道ローカル線お別れ乗車をしてきた。まともに客は乗っておらず、廃線は仕方ないと思う。根室本線と日高本線の一部は災害で不通のまま放置しており、莫大な経費をかけて復旧しても利用は見込めず、そのままなし崩し的に廃止にしたい考えだ。

留萌本線は先端部分の留萌駅〜増毛駅間がすでに廃線になっており、全線廃止も時間の問題であった。



札沼線の浦臼駅〜新十津川駅は1日1本しか走っていない超ローカル線だ。終着駅の新十津川駅は初電が終電車となって折り返す。北海道医療大学駅でほぼすべての客(学生)が下車し、先端部分はまさに秘境の雰囲気になる。

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むしろ見るも無残なのが災害で運休している根室本線と日高本線だ。いずれも代行バスが走っており、車窓から被害を受けた線路を垣間見ることができる。根室本線は中間部の廃止で分断されることになる。

根室本線落合駅の代行バス。
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日高本線代行バスからみた見た路盤が流されている区間。
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地元がどう騒いでも乗ってないのだからこれらの廃線はやむを得ない。ただし鉄道屋が廃線の決断を出すのはまさに苦渋の決断だと思うが、JR北海道はいとも簡単に廃線へと導いているようで、それが気に入らない。
もっと悪あがきをしてほしかったが、ここまでの放置が悪あがきだったのか。

JR北海道だけで維持困難な路線は全部で12線区が示されている。残りの8線区は国や道、地元に維持費用の負担を求めたうえで5年ごとに存廃を検証していきたいという。

また国に対しては、北海道新幹線の札幌開業が予定されている2030年度まで財政支援を求め、その後は経営自立を果たしていきたいとしているがどうだろうか。北海道新幹線については現在の想定よりも高速化し、札幌−東京間を4時間半で結ぶことで利用者増加へ繋げたい考えを示した。

2030年は一回り先の未来で、日本経済や世界情勢がどうなっているかもわからない。札幌冬季オリンピックを新幹線開通に合わせて2030年に開催したい考えがあるが、これまで2026年開催に立候補と言ってきたのにいまさら先延ばしはIOCが良い顔をしておらず、オリンピックが招致できたとしても、不透明感が続く。
| ニュース | 20:49 | comments(0) | - |


新潟少女殺害事件 死後轢断と下山事件
新潟市で小2の少女が絞殺されたのちにJR越後線の線路上に放置され、電車に轢かれた痛ましい事件。
警察は近所に住む20代の男を逮捕した。動機などは今後解明されていくだろうが、女児の冥福を祈りたい。
それにしても、1年以上前から不審者情報があったのに、特になにも手立てをしなかったようだがどういうことか。最悪の結果を招いてしまったではないか。

ところで、女児が死んでから列車に轢かれた、つまり死後轢断と聞いて、真っ先に下山事件が脳裏に浮かんだ。

まだ占領下の昭和24年(1949年)7月6日、初代国鉄総裁の下山定則氏が国鉄常磐線北千住〜綾瀬間で轢死体で発見された事件だ。

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↑NHKドラマより

その前日、7月5日、大田区の自宅を公用車のビュイックでいつもどおり出勤した下山総裁だったが、その後国鉄本社に現れず、夕方のラジオニュースで行方不明を聞いた運転手が届け出て事件が明るみに出た。
運転手は出勤前に三越で総裁と別れ、車に戻るのを待っていた。夕方までひたすら待っていたのである。

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↑NHKドラマでは小林桂樹が下山を演じた。下山は48歳で死んだ。

その朝、下山はまっすぐに国鉄に向かわず、行先をあちこち変えて運転手に指示し、最後に三越で別れたきりになった。国鉄本社では秘書がいつもどおり出迎えで待っていたが、いつまでたっても公用車が来ないので、大騒ぎになっていた。

下山はGHQ側から大量の人員削減を命じられていた。いわゆるドッジ・ラインである。
しかし国鉄一家として過ごしてきた下山はそれはつらいことだった。そのためか下山は睡眠薬を服用していた。

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↑ドラマでの事件現場。あくまでロケ地。

だから大勢は下山が自殺したとみられていた。出勤前にあちこちに車を行かせた常軌を逸した行動もそれをうなづかせた。
だが、東大医学部の司法解剖で下山の遺体は出血が少なく生活反応もないので、死後に轢断されたと判断された。それはつまり他殺されて現場に運ばれ、列車に轢断されたということである。
下山の遺体は大きく5つの部位にバラバラになっており、私は腕だけが線路上に転がっている写真を見たことがある。折からの雨で現場検証は困難を極め、遺品の回収も満足にできず、たとえば愛用のパイプは結局見つからなかった。それは殺害現場が別にあるのを示唆している。

いっぽうで、慶大医学部は列車の轢断遺体は生活反応が現れないケースも多々あるとし、新聞社も自殺派と他殺派に分かれる大論争となってしまった。

●自殺説の根拠の例
下山は米軍から国鉄の人員整理を命じられており苦悩していた。
睡眠薬を多用していた。
車を脈絡なくあちこちに行かせた。
下山らしき人物を現場付近で見かけた人が大勢いる。
夫人が「自殺したんじゃないかしら」とつぶやいた。
現場は大柄な下山の遺体を運ぶには数人がかりでも足場が悪すぎて困難であり、自殺なら本人が歩いて行ける。

●他殺説の根拠の例
遺体に生活反応がない(死体が轢かれた)。
鉄道を愛していた下山が鉄道を穢すような鉄道自殺はしない(知人たちの話)。
血がほとんど流れていなかった(別の場所で殺された)。
轢断した列車の一本前が進駐軍専用列車でその列車から遺体を落とした。
現場近くの小屋に大量の出血の跡があった(かつて大けがをした人がいたのがわかった)。
遺体の服から植物油や染料が見つかった(そういう工場で殺されたとの説)。
線路上にルミノール反応(血液反応)が出た(遺体を運んだ。⇔当時の列車は垂れ流しで、女性の経血がいくらでも落ちていた)。


その後、三鷹事件、松川事件の列車事故(事件)が相次ぎ、下山事件の捜査も米軍筋の動きがあって困難になり国鉄三大ミステリー事件と呼ばれ迷宮入りになってしまった。

下山事件は戦後間もない占領下で起きた事件で、真相は闇の中である。
松本清張は「小説・下山事件」で米軍の謀殺と推理しているし、取材にあたっていた朝日新聞記者の矢田喜美雄は「謀殺下山事件」としてやはり謀殺(他殺)を訴えている。

実際に捜査をした警視庁の名物刑事平塚八兵衛は「自殺に決まっている」と謀殺説を切り捨てている。

さて、なんでもそうだが、現代の医学や捜査技術を使えば、下山事件はキチンと解明できたのではないか、ということだ。今回、死後轢断とすぐに判断されたのも、医学のなせるワザだろう。
犯人は少女が鉄道自殺したと見せかけたかったのかもしれない。

なお、今でも下山事件に関心を持つ人は少なくないと見えて、下山事件資料館は非常に詳しい。
マンガ原作者の長崎尚志は「ビリーバット」と「闇の伴走者〜編集長の条件」に下山事件を登場させている。

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ちなみに現場はすでに高架になっている。移築されたが事件の慰霊碑があるらしく、一度行ってみたい。

  
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