2018.09.09 Sunday
第2回アメリカ横断ウルトラクイズ 退職し成田空港へ
40年と1週間前、第2回アメリカ横断ウルトラクイズ後楽園球場国内第1次予選に通過してしまった私は、アメリカロケの3週間を休むべく、会社を辞めるしか選択肢がなかった。1978年9月4日月曜日に上司に「(建設業の)仕事が自分には向いていないから辞めたい」と話し、すべてを了解していただき、1978年9月9日の土曜日を迎えた。この日は午前中は仕事で、夕方に麹町の日本テレビに荷物をもって集合し、成田空港に向かう日だった。
土曜日だけれど午前中に飯場に出勤し、上司と建設会社の本社に向かった。この1週間ですべての話はつけられたと見え、役員が退職届を受理して正式に退職した。
役員が言うには、いろいろな建設現場があるが、私にあてがったのは基礎から学べるいい現場とのことだった。それだけ期待されていたのでもあり、申し訳なかったが、もう建設現場はこりごりだった。身体も気持ちも、これ以上持たない。
ではなぜ建設会社に入ったのか。それは父の影響だった。父は軍人の夢が断たれた戦後、建設業に従事し、妻子のみならず親や弟たちを養ってきた。父は働きながら学び一級建築士の資格を得て、設計の仕事をしていた。今から思うと、相当な苦労があったはずだ。いずれ私に建築設計事務所を継がせたかったに違いない。そのため大学は工学部建築学科に入ったものの、父の敷いたレールに反発し、ほとんど勉強しなかった。それでも父の勧める建築会社に入り、振り返れば自分は優柔不断で結局は父の敷いたレールを揺れながら走っていた未完成の列車であった。イヤだイヤだと言いながらも、父の言いなりになっていた。今とは違って親の力が強い時代だったけれども、自分は意志薄弱だった。
ウルトラクイズを口実にして建設会社を辞めたのは、自分のレールを敷いて、走り出そうとしたのだろう。遅すぎる判断だったのか、あるいはちょうどいいタイミングだったのか、結果がすべての現実から振り返れば、後者なのだろう。
作業着やヘルメットなど一式を持って、飯場を後にした。先輩や職人さんがひっそりと声をかけてくれた。
「ウルトラクイズに出る」とは言っていない。みんなが、仕事がイヤになって辞めるのだと思っていたし、それはそれで正しいのだった。少なくともあの飯場を去るときは、先輩たちからは人生の脱落者と思われていたのだろう。それも正しいのだった。
その後、あの現場に新人が補充された話は聞いていない。どうなったのだろうか。のちに現場を訪れたら、建物は建っていたけれども。
いったん家に帰って今度はスーツケースを持って、後楽園予選に一緒に通過していた妹とともに麹町の日本テレビに向かった。100人が集まったのだが、どうやら一人二人は欠けていて、補欠が呼び出されているようだった。
皆の前に立ってあいさつした偉い人(石川一彦取締役制作局長)の話では「私もどんな問題が出るのか、どんなクイズ内容なのか聞かされていません」と言っていた。本当かどうかはわからない。
その後、バスに乗って成田空港へと向かった。
前年に、クイズタイムショックの優勝旅行でアメリカ西海岸に行ったのは羽田空港からで、成田空港は初めてだった。バスは暗くなった酒々井サービスエリアに止まり、あとで知ったが宿泊先であり国内第2次予選会場の成田エアポートレストハウスの、セットの準備状況をスタッフが確認しているのだった。携帯電話はないから、サービスエリアの公衆電話からだ。
成田エアポートレストハウスに到着し、順番に部屋割りされて知らないおじさんと同室になり、世間話をいくつかして、明日は5時にロビー集合とのことで早めに寝たと思う。
しかし、仕事のこと会社のことこれからのこと、考えても考えてもキリのない状態に、眠れたのだろうか。
ニューヨークまで行って優勝できるとは思っていなかったけれども、新たな歴史は動き始めていたのである。もう、後戻りはできなかった。
単に「この仕事がイヤだから」「クイズが好きだから」「ウルトラクイズに出たいから」「海外旅行をしたいから」ではない、人生の転換をウルトラクイズに求めていた。
土曜日だけれど午前中に飯場に出勤し、上司と建設会社の本社に向かった。この1週間ですべての話はつけられたと見え、役員が退職届を受理して正式に退職した。
役員が言うには、いろいろな建設現場があるが、私にあてがったのは基礎から学べるいい現場とのことだった。それだけ期待されていたのでもあり、申し訳なかったが、もう建設現場はこりごりだった。身体も気持ちも、これ以上持たない。
ではなぜ建設会社に入ったのか。それは父の影響だった。父は軍人の夢が断たれた戦後、建設業に従事し、妻子のみならず親や弟たちを養ってきた。父は働きながら学び一級建築士の資格を得て、設計の仕事をしていた。今から思うと、相当な苦労があったはずだ。いずれ私に建築設計事務所を継がせたかったに違いない。そのため大学は工学部建築学科に入ったものの、父の敷いたレールに反発し、ほとんど勉強しなかった。それでも父の勧める建築会社に入り、振り返れば自分は優柔不断で結局は父の敷いたレールを揺れながら走っていた未完成の列車であった。イヤだイヤだと言いながらも、父の言いなりになっていた。今とは違って親の力が強い時代だったけれども、自分は意志薄弱だった。
ウルトラクイズを口実にして建設会社を辞めたのは、自分のレールを敷いて、走り出そうとしたのだろう。遅すぎる判断だったのか、あるいはちょうどいいタイミングだったのか、結果がすべての現実から振り返れば、後者なのだろう。
作業着やヘルメットなど一式を持って、飯場を後にした。先輩や職人さんがひっそりと声をかけてくれた。
「ウルトラクイズに出る」とは言っていない。みんなが、仕事がイヤになって辞めるのだと思っていたし、それはそれで正しいのだった。少なくともあの飯場を去るときは、先輩たちからは人生の脱落者と思われていたのだろう。それも正しいのだった。
その後、あの現場に新人が補充された話は聞いていない。どうなったのだろうか。のちに現場を訪れたら、建物は建っていたけれども。
いったん家に帰って今度はスーツケースを持って、後楽園予選に一緒に通過していた妹とともに麹町の日本テレビに向かった。100人が集まったのだが、どうやら一人二人は欠けていて、補欠が呼び出されているようだった。
皆の前に立ってあいさつした偉い人(石川一彦取締役制作局長)の話では「私もどんな問題が出るのか、どんなクイズ内容なのか聞かされていません」と言っていた。本当かどうかはわからない。
その後、バスに乗って成田空港へと向かった。
前年に、クイズタイムショックの優勝旅行でアメリカ西海岸に行ったのは羽田空港からで、成田空港は初めてだった。バスは暗くなった酒々井サービスエリアに止まり、あとで知ったが宿泊先であり国内第2次予選会場の成田エアポートレストハウスの、セットの準備状況をスタッフが確認しているのだった。携帯電話はないから、サービスエリアの公衆電話からだ。
成田エアポートレストハウスに到着し、順番に部屋割りされて知らないおじさんと同室になり、世間話をいくつかして、明日は5時にロビー集合とのことで早めに寝たと思う。
しかし、仕事のこと会社のことこれからのこと、考えても考えてもキリのない状態に、眠れたのだろうか。
ニューヨークまで行って優勝できるとは思っていなかったけれども、新たな歴史は動き始めていたのである。もう、後戻りはできなかった。
単に「この仕事がイヤだから」「クイズが好きだから」「ウルトラクイズに出たいから」「海外旅行をしたいから」ではない、人生の転換をウルトラクイズに求めていた。