2019.02.13 Wednesday
韓国気まぐれ列車 種村直樹 著を読む
先日、1988年11月に行った日韓共同きっぷでの韓国旅行のビデオを30年ぶりに見直した。
ほとんどの記憶を失っており、しかもビデオカメラのみ持参したようでスチール写真がなく、それもいかがなものかと思うが、この時は種村直樹氏・辻聡氏一行と分散集合の旅をしていたのは覚えているから、いったいどんな旅だったのだろうと、種村直樹氏の「韓国気まぐれ列車」を久しぶりに読みかえしてみた。
そもそもが、種村直樹氏の著作を読むこと自体が久しぶりだった。
しかし久しぶりに読んでおもしろかった。かつて「自分で旅行するよりもおもしろい」と思ったあの感動がよみがえってきた。<あんなルポ>で感動するのはいかがなものかと思うが正直な感想だ。文章は上手ではないのだが、まさにその場にいるような、一緒に旅をしている雰囲気になる不思議な現象だ。
あれはマネしようと思ってもマネできないな。
「韓国気まぐれ列車」によると、われわれ三人より1日あとに出発した種村氏一行は関釜フェリーで一等船室をおごり、ぐっすり眠って釜山に。われわれは二等船室だったのは覚えているが、船内でバクチをしているおばさんたちのおかげで眠れなかった、と書いてある。確かに立てひざのおばさんがいたのは覚えているが、バクチをしていたのか。
釜山から西部の港町、麗水(よす)まで列車に乗り、帰りは高速船で海路で釜山に戻る。
そしてわれわれと一緒に東莢(とんね)観光ホテルに泊まり、ホテル内で韓式の食事をいっしょにとった。われわれと同じオンドル部屋に泊まった。
おぼろげに東莢観光ホテルに種村氏がいたような気がするが、いっしょに「黒山羊汁定食」を食べたとは、まったく覚えていない。
われわれは翌日のセマウル号(KTX=韓国新幹線が開通する前の特急列車)でソウルに行ったが、種村氏一行は蔚山(うるさん)や慶州(きょんじゅ)を眺めて、慶州の世界遺産仏国寺付近に泊まった。ここでの客引きやタクシーとの駆け引きはおもしろく、こういうのを読んで私なりに旅の極意を学んだのだなと思い出す。
セマウル号でソウルに出て、われわれと同じ豊田(ぷんじょん)ホテルに投宿。何年後にも豊田ホテルには泊まったが税関で韓国の滞在先にTOYOTA HOTELと書いたものだから、日本語のできる税関吏は「とよたほてるってあったっけ?」といぶかしがっていた。
このホテルは安いビジネスホテルクラスだったが、最近はホテルPJとしてフルリニューアルして、評判もいいらしい。もう韓国には行かないけれど。
韓国最後の夜は、われわれ三人と合わせて5人で、漢江(はんがん)の川向こうにある景福宮(きょんぼっくん)という高級韓国料理店に行ったみたいだ。まったく覚えていない。
フルコース二人前とカルビ三人前を頼んだそうだが、これもまったく覚えていない。ビデオにも映っていない。
最終日、われわれとは別々にソウル市内を観光して、この年の夏にソウルオリンピックが開かれた総合運動場前で落ち合い、高速バスで金浦空港まで行った。ここはビデオに映っている。
そして小松〜新潟便で帰国し、上越新幹線で帰京した。
「韓国気まぐれ列車」には、このほか1977年の初めての韓国旅行である「韓国鉄道膝栗毛」、1997年の日本大使館職員と行った「韓国SLと分断鉄道」、2004年の「忘れ得ぬ人--巨文島紀行」などが収録されている。
時代を経るにつれ、韓国人が明るくなったとの感想だ。1988年のころはまだ日本語で話しかけてくる老人が多くいたみたいだ。
こうして自分の旅の思い出(ビデオ)と種村直樹氏の著作を見比べると、種村氏の著作のほうがはるかに鮮明である。もし種村氏が存命で今なお記憶がはっきりしている人であったなら、1988年の韓国旅行について雑談したらどんなことを話すのだろうか気になるが、おそらく著作どおりの、昨日見てきたような話しぶりなのだろう。
かつて種村氏が、あまりに鮮明に旅先の様子を話すものだから、棋士が打った手順を事細かにすべて覚えているのと同じなんだなと思ったことがある。
その点、私は仕事(広告屋)のことも旅のことも忘れている。講演のビデオや昔の企画書を引っ張り出しては、昔の自分は偉かった、と思っているレベルだ。
そして改めて、種村氏の旅ルポはおもしろかった。自分で旅するよりもおもしろい。久々にほかの著作も読んでみよう。
それに、もう今は走っていない線区のルポも多数残っているから、若い鉄道ファンにも読んでもらいたいと思う。そういう機会があればいいのだが。
ほとんどの記憶を失っており、しかもビデオカメラのみ持参したようでスチール写真がなく、それもいかがなものかと思うが、この時は種村直樹氏・辻聡氏一行と分散集合の旅をしていたのは覚えているから、いったいどんな旅だったのだろうと、種村直樹氏の「韓国気まぐれ列車」を久しぶりに読みかえしてみた。
そもそもが、種村直樹氏の著作を読むこと自体が久しぶりだった。
しかし久しぶりに読んでおもしろかった。かつて「自分で旅行するよりもおもしろい」と思ったあの感動がよみがえってきた。<あんなルポ>で感動するのはいかがなものかと思うが正直な感想だ。文章は上手ではないのだが、まさにその場にいるような、一緒に旅をしている雰囲気になる不思議な現象だ。
あれはマネしようと思ってもマネできないな。
「韓国気まぐれ列車」によると、われわれ三人より1日あとに出発した種村氏一行は関釜フェリーで一等船室をおごり、ぐっすり眠って釜山に。われわれは二等船室だったのは覚えているが、船内でバクチをしているおばさんたちのおかげで眠れなかった、と書いてある。確かに立てひざのおばさんがいたのは覚えているが、バクチをしていたのか。
釜山から西部の港町、麗水(よす)まで列車に乗り、帰りは高速船で海路で釜山に戻る。
そしてわれわれと一緒に東莢(とんね)観光ホテルに泊まり、ホテル内で韓式の食事をいっしょにとった。われわれと同じオンドル部屋に泊まった。
おぼろげに東莢観光ホテルに種村氏がいたような気がするが、いっしょに「黒山羊汁定食」を食べたとは、まったく覚えていない。
われわれは翌日のセマウル号(KTX=韓国新幹線が開通する前の特急列車)でソウルに行ったが、種村氏一行は蔚山(うるさん)や慶州(きょんじゅ)を眺めて、慶州の世界遺産仏国寺付近に泊まった。ここでの客引きやタクシーとの駆け引きはおもしろく、こういうのを読んで私なりに旅の極意を学んだのだなと思い出す。
セマウル号でソウルに出て、われわれと同じ豊田(ぷんじょん)ホテルに投宿。何年後にも豊田ホテルには泊まったが税関で韓国の滞在先にTOYOTA HOTELと書いたものだから、日本語のできる税関吏は「とよたほてるってあったっけ?」といぶかしがっていた。
このホテルは安いビジネスホテルクラスだったが、最近はホテルPJとしてフルリニューアルして、評判もいいらしい。もう韓国には行かないけれど。
韓国最後の夜は、われわれ三人と合わせて5人で、漢江(はんがん)の川向こうにある景福宮(きょんぼっくん)という高級韓国料理店に行ったみたいだ。まったく覚えていない。
フルコース二人前とカルビ三人前を頼んだそうだが、これもまったく覚えていない。ビデオにも映っていない。
最終日、われわれとは別々にソウル市内を観光して、この年の夏にソウルオリンピックが開かれた総合運動場前で落ち合い、高速バスで金浦空港まで行った。ここはビデオに映っている。
そして小松〜新潟便で帰国し、上越新幹線で帰京した。
「韓国気まぐれ列車」には、このほか1977年の初めての韓国旅行である「韓国鉄道膝栗毛」、1997年の日本大使館職員と行った「韓国SLと分断鉄道」、2004年の「忘れ得ぬ人--巨文島紀行」などが収録されている。
時代を経るにつれ、韓国人が明るくなったとの感想だ。1988年のころはまだ日本語で話しかけてくる老人が多くいたみたいだ。
こうして自分の旅の思い出(ビデオ)と種村直樹氏の著作を見比べると、種村氏の著作のほうがはるかに鮮明である。もし種村氏が存命で今なお記憶がはっきりしている人であったなら、1988年の韓国旅行について雑談したらどんなことを話すのだろうか気になるが、おそらく著作どおりの、昨日見てきたような話しぶりなのだろう。
かつて種村氏が、あまりに鮮明に旅先の様子を話すものだから、棋士が打った手順を事細かにすべて覚えているのと同じなんだなと思ったことがある。
その点、私は仕事(広告屋)のことも旅のことも忘れている。講演のビデオや昔の企画書を引っ張り出しては、昔の自分は偉かった、と思っているレベルだ。
そして改めて、種村氏の旅ルポはおもしろかった。自分で旅するよりもおもしろい。久々にほかの著作も読んでみよう。
それに、もう今は走っていない線区のルポも多数残っているから、若い鉄道ファンにも読んでもらいたいと思う。そういう機会があればいいのだが。