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1963年 父の職場旅行 那須で泊まった旅館は
だいたい手元にある写真はデジタル化した。そのため、いつでも写真を見ることが出来る。ネガは劣化で丸まってしまい、もう廃棄するしかないが2013年にデジタル化していたので、よかった。今ならスキャナーにもかからない。もし50年くらい前の写真が大量に残っている人なら、今スキャンをするべきだ。業者にお金を払ってもその価値は十分にある。そしてビデオテープもハードディスクにダビングをするべきだ。

さて、私がまだ小学生のころ、父は建築設計事務所に勤めていた。その職場旅行(社員旅行)の写真が残っている。前後の様子からおそらく1963年だと思うが、職場旅行の次のフィルムのコマは妹の幼稚園入園式の写真(1963年4月)なので、3月に職場旅行をするとも思えず、1962年の秋からフィルムを入れっぱなしなら、昨日紹介した1962年の会津旅行とかぶることになる。
だから撮影年は本当に1963年だか、不安だ。1979年に整理したネガフィルムの袋も、62?と書いてあった。このとき父は存命だったが、おそらく行った事は覚えていても、いつだったか忘れていると思う。

1963-04-004.jpg

バスの前で同僚たちとの写真。父はもっぱらカメラマンなので自分は写っていない。今の私と同じような状況だ。カメラはニコンS2のはずだ。ピントも露出もすべて手動だ。1963年のカラーフィルムはISO感度は64程度だったのではないか。感度が低いうえに天気は曇り空で露光が不足気味である。

さて、この撮影場所はどこだろう。
これは一発でわかった。バスの行き先表示が
弁天=大丸=八幡
とあり、この地名で検索したら栃木県那須温泉だった。

1963-04-005.jpg

逆に言うと路線バスで観光しているのか。たまたま来ていた路線バスの前で写真を撮ったとは考えにくい。

Googleマップで見たら、かなり那須岳に近い山のほうにある温泉だ。鉄道や高速道路からかなり離れている。今でも行きにくいと思う。

masu-1.jpg

赤丸が後述する那須高原ホテルビューパレスの位置。

nasu-2.jpg

天気が悪かったせいもあるだろうけれど、このときの職場旅行の写真は5枚しか残っていない。
バスの写真の前に、傘をさしている同僚たちとの写真がある。おそらく旅館に泊まってその前で撮影したのだ。

1963-04-002.jpg

どの旅館だろう。
私としては気になった。
手がかりは赤白の、盗まれないようにハデにしてある旅館の傘だ。

フォトショップで写真を左右逆転させて旅館の名前が読めるようにする。

1963-04-001.jpg

石●荘

と読める。石黒荘ではないだろう。もしかして石雲荘かな。

那須 石雲荘

で検索したらヒットした。素晴らしきインターネットの世界。
ネットの情報を総合すると、
小松屋石雲荘
と言ったらしい。
小松屋旅館別館が後に石雲荘になり、現在は那須ビューホテル、そして建て替えられて那須高原ホテルビューパレスになっている由。残念ながら現在は石雲荘は存在しない。

この石雲荘時代の写真は「那須温泉昔語り館」に展示されているようで、

nasu-1.jpg

とても立派な建物だった。今では石垣しか残っておらず、地元の子どもたちの花火大会の会場になっているみたいだ。

那須温泉で民宿しながら猫の里親奮闘中ブログ
むかし石雲荘と言う宿がありました。
(筆者の)小学校の時は建物も少し残っていましたが、今はキレイに撤去され城跡のように石垣が残っております。相当立派だったようで、斜面を利用して石垣が三段にわかれています。
石雲荘跡地は、花火広場や盆踊り、石垣を利用したナイアガラ仕掛け花火などで利用させてもらってます。

1980年代には解体されたようだ。

ところで、那須ビューホテルなら、浅草ビューホテルを始めとして、日本ビューホテル株式会社の経営ではないか?
ネットサーフィンで創業者にたどり着いた。

日本ビューホテル
創業者・箭内源典(やない・げんてん)が、栃木県那須郡那須町において合資会社小松屋石雲荘により旅館業を経営していたことが後のホテル業界での事業展開の契機となっている。
そして那須ビューホテルは1960年に建てられたので、父が泊まった時は石雲荘と並行して経営していたことになる。

父が泊まった石雲荘のオーナーの箭内氏について芋づる式にたどり着いたのは、「ホテルの社会史(富田昭次著)」という本である。
Googleブックスで一部が読める。

ホテルの社会史
著者: 富田昭次

3 空港ホテルと下町ホテル
「景色が良ければ人は必ず来る」という信念

1966年7月4日、新東京国際空港が千葉県成田市三里塚に建設されることが閣議で決定された。
空港の建設工事が進むにつれて空港周辺をホテル立地としていち早く注目した人物がいた。那須と伊良湖でビューホテルを経営していた箭内源典(やない・げんてん)である。「父が新東京国際空港にいち早く注目したのは、国際的な感覚を持っていたからだと思います。姉をアメリカのコーネル大学に留学させ、私をヨーロッパに行かせたのもその表れですが、空港の計画が出始めた2、3年後には調査を開始していました。それから、その前後だったと思いますが、アメリカへの視察旅行に出かけた際、空港ホテルが印象に残っていました。郊外に立地していることもあって、アーバンリゾートのような性格を兼ね備えていたホテルに面白みを感じていたんですね。」こう語るのは源典の息子・祥周(よしちか)である。
1915年(大正4年)に生まれた源典は41年(昭和16年)の父・源太郎の死後、父が創業した那須湯本温泉の湯治場旅館小松屋を受け継いだが、終戦間際の大火で、その旅館を失った。
源典は再建に際して思い切った手を打った。日本建築の大家・吉田五十八に設計を依頼しようと考えたのである。と言って吉田に面識があるわけでない。勝手に押しかけ、拝み倒そうとしたのである。源典は何度となく門前払いを受けた。それでもあきらめなかった。吉田はとうとう根負けし、源典の依頼を引き受けることになる。
吉田が初めて設計したと言われる旅館石雲荘はこうして1949年(昭和24年)に開業した。吉田の作品と言うことが人気を呼んだ。
再建の第一弾に成功した源典は次の手を打ち始める。那須高原に着目し、高原の土地を手に入れていったのである。湯本温泉の同業者は源典のこの行動をいぶかった。
彼はなぜこんな行動に出たのか。
人は美しい風景を愛する。だが石雲荘は昔ながらの狭い湯本温泉に位置していた。美しい風景とは無縁だった。源典には景色が良ければ人は必ず来ると言う信念があった。そこで高原にホテルを建てようとしたのである。その成果は1960年(昭和35年)に那須ビューホテルの開業と言う形で結実した。


箭内源典氏は父親から譲り受けた湯治場旅館小松屋を大火で失ったが、数年後に再建するときに、日本建築界の大御所、吉田五十八(よしだ・いそや)を拝み倒して設計を依頼する、熱意と先見の明のある人だ。実際、石雲荘は人気で、それは先の白黒写真でよくわかる。
子どもたちを留学させたり、各地にビューホテルを建てたり、すごい人だった。

たった5枚の色あせた写真からいろいろなことがわかる。那須に行ったことがあるが、再度行く機会があれば、石雲荘あとの石垣を見たり、その進化形である那須湯本温泉 ホテルビューパレスに泊まってみたいものだ。

  
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