CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
Twitter




Amazon左

















MOBILE
qrcode
<< バイクの傷を直したつもりが | main | 千駄木のディナー:せとうち 鉄道居酒屋 >>
忘れられない、比木和博先生
これまで何人もの「先生」と呼ばれる人に教わってきたが、小学校時代の担任だった比木和博(ひき・かずひろ)先生は忘れられない先生だ。

比木和博先生

3年生から6年生までの4年間担任だったから、当時の区立小学校では長かった。
これには理由があり、私たちの学年は2年生の途中で別のクラスの先生が辞めてしまい、どうやら補充ができなかったようで、5組あったクラスを4組にしてしまい、1組43名くらいが54名くらいに膨れ上がってしまったのだ。

仲良しは離ればなれになるし教室もギューギュー積め。
あの学年はかわいそうだったからと、4年連続の担任になった。
いい先生だったからよかったものの、そうでなければ苦痛が4年続いたということだ。

当時の先生というか親世代がすべてそうだったように戦争体験者で、比木先生は師範学校を出てから海軍にいった。だから行進やマスゲームなどの指導は得意だった。

比木先生は社会が専門で、5年か6年のとき社会の授業を2時間続けてやる時間割にして、学校近くの神社などへ実地踏査を含めた授業をしたこともある。

教育熱心に加えてアイデアマンで、クラスを5人程度ずつのにわけて、グループ学習を推進していた。
ポスターくらいの大きさのベニヤ板を黒く塗ってミニ黒板にして班の発表はそれでした。
板を切ってテニスとピンポンの間くらいの大きさのラケット状のものを作り、テニポンと名付けて校舎屋上で体育の授業に使った。校庭は土だからボールをはねさせる球技には向かなかったのだ。
遠足に行った先をクラスの旗に書いていった。「弘法山」「羽田・横浜」…。4年分を書くため、後半の字は小さくなった。

弘法山遠足

比木という苗字は珍しく、埼玉県に比企郡があるが字が違うと自分のルーツを気にしていた。比木先生が残念だったのは奥さまとの間に子供がいなかったことで、珍しい比木姓を継ぐ人がいなかったことだ。
かと言って養子を得ることもなかった。

先生は2つ隣の駅の団地に住んでいたから、クラスメート何人かで遊びに行ったことがあるし父と先生宅を訪れたこともある。こういう人的交流は昔は普通で自然だったが、今はいろいろと面倒の元になるようで、愚かな時代になった。父は陸軍だったから軍隊時代の話をして盛り上がっていた。

卒業式の日、校庭で体育館に入る列に並んでいたとき先生はこっそり声を掛けてくれた。
「君は普通の人になっちゃだめだぞ」
普通の人にはならなかったつもりだ。良い意味か悪い意味かは別として。

大学生(建築工学科)の時、別の小学校の校長になった比木先生を訪ねた。
出身小学校の校舎を図面にする課題があったのだが、あえて比木先生のいる学校にした。
校長室で一緒に給食をいただき「君はお父さんの仕事を継ぐのか」と微笑んだが、結局継ぎませんでした。父が一級建築士なのを覚えていてくださった。

20世紀も終わりに近づいたあるときクラスメートから電話があった。比木先生が旅先の九州で亡くなったと。

いやな雨が降る中、駅から遠い寺まで通夜に向かった。
靴の中まで雨がしみて泥と一緒になって靴下の色が変わった。

久しぶりに見た遺影の先生はほっそりしてするどい眼光になっていた。
「お父さんを継ぐのか」と言ったときの柔和な表情ではなかった。

阪急交通社の供花があったから、そのパッケージツアー中に亡くなったのだなと思った。ある程度の旅行会社なら、そういう事故時のマニュアルは整備されている。どうやら突然の心筋梗塞で亡くなったようだった。
退職後もテニスなどをしていたというが、軍隊時代から体を鍛えていても、ダメな時はダメなのだった。

その後、奥さまを招いて忍ぶ会という同窓会を開いた。



さらにその後、先生の墓参に行ったクラスメートは「(墓石の)奥さんの名前は前は赤かったけれど、色が消えていた」というから奥さまも亡くなったのだろう。


もし比木先生が急死ではなくて一命を取り留めたが半身不随、車いす生活で言葉もしゃべれず手も動かせず、食事はチューブの、回復の見込みのない状態だったら何と声を掛けようか。

「早くよくなってください」
「またいろいろ教えてください」
「○○に一緒に行きましょう」

これらはすべて無意味な言葉。もう、よくはならないのだから。

「本当にお世話になりました。私がこんにちあるのは先生のおかげです」
「ぼくを眼にかけてくださってありがとうございます。ご期待に添えず恥ずかしい限りですが、それでもがんばっていきます」

むしろ、これまでの感謝の気持ちを生きているうちに言葉として伝えたほうがいいのではないか。

いや、本人は意識はあるのだから最後の別れのような言葉は負荷にすぎないか。

そういうお礼の言葉をかけることあってもいいと思うのだが、実際にした人された人はいるのだろうか。
重篤な患者や死期が近づいている老人が身近にいる年齢になって、こういうことに悩むようになった。

寝入りばなのふとんの中から子供相手に「パパが死ぬ時の練習をしよう」というと「ウザイ」と言われる。当たり前だねw。

| 日記・つぶやき | 10:46 | comments(0) | - |


コメント
コメントする