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#ひよっこ 究極の伏線回収 最初から狙っていたのか 続編希望
NHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」が終わった。
東京オリンピックの翌年1965年春、茨城県奥茨城村の高校生、谷田部みね子(有村架純)は高校卒業後家業の農業を手伝うつもりでいたが、東京に出稼ぎに出ていた父の実(沢村一樹)が突然失踪して仕送りが途絶え、家計を助けるために東京に働きに出る。
向島電気でトランジスタラジオを組み立て、寮の仲間とも仲良くなる。しかし会社は倒産、父は見つからず、今度は赤坂のレストランすずぶり亭でウェイトレスとして働き始める…。


これまでの朝ドラの王道だった、成功した女性の実話をベースにしたものではないオリジナルストーリーで、ごく平凡な若い女性の4年間の出来事をつづり、最後は父も見つかり結婚に至る、ほのぼのとした物語だった。

前作の「べっぴんさん」が駄作だったため初期の視聴率は伸び悩んだが、だんだんと人気が高まり、20%を超えるようになった。幼馴染や寮や下宿先の多彩な仲間たちとのさまざまな交流も楽しかった。

しかし何と言ってもすごいと思ったのは、最終週に次々となされた「伏線回収」である。

○靴下の1万円
みね子が東京に働きに出るとき、祖父茂(古谷一行)が「本当に困ったときに」と1万円をこっそりと渡す。当時の初任給は1万円以下で、今の20万円以上の価値がある。みね子はそれを靴下にしまう。
4年後、家族で上京する時の軍資金にする。みね子はそれまで手を付けていなかった。



○長身の時子(佐久間由衣)
奥茨城村の同級生、助川時子は長身で将来女優になりたいと思っている。芽が出なかったが、当時ミニスカブームの火付け役だったツイッギーそっくりコンテストで優勝し、女優の道を歩みだす。この設定のために長身のモデル出身の佐久間由衣ちゃんがキャスティングされた、と思う。



○電気工事の松下さん
向島電気のライン長だった松下明(奥田洋平)は会社が倒産し、女工たちの再就職に尽力した。その後行方が知れなかったが、電気工事の社長兼職人としてすずふり亭に登場。それを見た元寮母の永井愛子(和久井映見)は「松下電器?」。このしゃれのために松下と言う役名だったのか。

○食堂のコックはカレーが得意
向島電気の食堂のコックの森和夫さんはカレーが得意でみんなの大好物だった。
みね子が見習いコックでカレシの前田秀俊(磯村勇斗)とレストランめぐりでカレーを食べるとどこかで食べた味。なんと和夫さんがやっている店だった。カレーが得意ということをひきずっているのだ。

○田舎のバスもワンマン化

奥茨城村のバスの車掌益子次郎(松尾諭)は自分を奥茨城の人を送りだし、迎える仕事だと思っている。しかしバスはワンマン化され車掌の仕事を失う。その後みね子が帰郷するとバスは運転手のみ。次郎の消息を聞くと村長選挙に立候補していた。

○赤いてぬぐい、マフラーにして
第38回の小ネタ。
銭湯の前を通る乙女寮の仲間たち。その後ろの銭湯の入口に赤い手ぬぐいをマフラーにした女が立っている。その後、男が出てきて二人で銭湯を後にする。大ヒットフォークソングの「神田川」である。



○重箱のエピソード
第7回(最初の1週目の土曜日)で父実はすずふり亭にお礼だと、妻美代子(木村佳乃)が作ったまんじゅうを重箱に入れて持ってくる。

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そして重箱を預けて去るが、その後記憶を失う。4年後の設定の第156回最終話、家族ですずふり亭を訪ねると、重箱を預けていたことを思い出す。記憶がよみがえりつつあるエピソードとして重箱を忘れていなかった。

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モデルがいない架空の話だからこそできた伏線とその回収と思うにしても、よくできている。

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脚本の岡田恵和は「ちゅらさん」など3作の朝ドラを手掛けたベテランで、ちゅらさんはその後土曜ドラマ枠で何度も続編が作られた。
スピンオフも観たいけれど、ぜひ「ひよっこ」の続編を作ってほしい。それも土曜ドラマでなくて、朝ドラ本編でやってほしい。

とてもおもしろくて朝が待ち遠しかった。どうもありがとう。大好きだよ。
| 映画・テレビ | 21:20 | comments(0) | - |


デジカメ写真保存術 パソコンのハードディスクがすべて満杯になる
デジタルカメラやスマートフォン・携帯電話で撮影した写真ファイルをどうしていますか?
どうもヒアリングしてみると多くの人はそのままにしていたり、デジカメはSDカードが満杯になったら安いSDカードを買う人も多いらしい。スマホに至っては古い写真を消して撮り続けるという、じゃ、古い思い出はどうなるんだというギモンが生じた。

しかし思い出をいつまでも残したいなら、写真の保存についてしっかり考えたい。
元同僚のYさんはデジカメ写真を保存していたCD-Rを傷つけてしまい、お嬢さんの写真をすべて失ってしまった。

保存には2つの方法を勧める。

1)ハードディスクとDVD-Rのように、異なる2つ以上の媒体に同じものを保存する。
2)本当に大切な写真は紙焼きして残す。


SDカードから定期的にパソコンのハードディスクにコピーをしていたら、すべてのドライブが満杯になってしまった。

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同じものを、Eドライブ、Fドライブなどの異なるハードディスクにコピーしていたのだ。Eドライブが壊れてもFドライブの写真が残る。

そもそもSDカードやハードディスクは消耗品で、突然壊れる。そのため、複数のメディアに保存しておくことを強く勧める。1つのメディアにしか保存していると、それが破損したらすべてが無に帰すのだ。

ところで私は1954年からの写真を年単位でフォルダを作ってハードディスクに保存している。

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デジカメを使うようになったのは20世紀末からなので、それ以前はフィルムネガをスキャンしてあるのだ。デジタルのほうが扱いやすいし保存場所も取らないしメリットのほうが多い。

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一方で、2006年ごろからフィルムでの撮影をやめてデジカメ一辺倒になった。すると年単位で作ってあるフォルダがどんどん大容量になっていくのだ。

1954年から2000年までの46年分はまとめて20GB程度なのに、デジカメ後は1年で10GBはザラで、昨年は75GBになってしまった。現実的に何枚撮影してもタダだし、高画質大容量化して今では1枚が3MBくらいになっている。

フロッピィディスクを知っている人も少なくなったが、1枚1.44MBだった。つまり、1枚の写真はもはやフロッピィに収まらないのだ。



60年間の写真は360GBだが、今後毎年100GB近く増えていくと、いくつハードディスクがあっても足りなくなる。そこでデジカメ専用として2TBのハードディスクを買ってきた。

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まだゆとりがあるが、生きていればこれも満杯になるのは時間の問題だ。

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ハードディスクに加えてDVD−R、最近はBlu-RayディスクのBD-Rへの保存も勧める。そのかわり、日の当たらない冷暗所に保存する。DVD-Rは光や熱に弱いのだ。

DVDは1枚4.7GBだから75GBなら16枚必要だ。BDは25GBだから3枚となる。



しかし片面2層のBD-R DL(ダブルレイヤー)なら倍の50GB入る。そこで録画用のBD-R DLに保存しようとしたら反応しない。ディスクは一層の値しか示さなかった。調べたら、私のBD-Rディスクドライブは出てすぐ買ったのが災いして、片面一層にしか対応していなかった。

そして紙焼きは古くからの手法であるが、津波にのまれても写真さえあれば洗って画像を見いだせる。ヘリが敗れてもなんとかみられる。ハードディスクは記録用の円盤状のディスクが内部で高速で回って記録しているのだが、ちょっとでも傷が付けば全部が壊れると思ったほうがいい。
そうすると、紙焼きは強い。

おじいちゃんの写真だって残っているでしょう。君の写真は50年後に一つも残っていないかもしれない。

デジカメ写真のプリントは自分のプリンタでもできるが、大量の場合はネットで写真を送ってプリントして返送してもらえる。

満杯になったハードディスクを観て、写真の保存方法に悩まされている。
| パソコン・インターネット | 22:26 | comments(0) | - |


広島 祖母の1960年のアルバムの撮影場所を訪れる
今回行った広島は祖父母の郷里である。祖父は私が1歳8か月の時に亡くなったのでまったく記憶にない。その後の祖母は時折広島の親せきから物が送られてきたり送ったりしていたが、里帰りをした記憶もない。すでにきょうだいたちは東京に出てきて、広島はわざわざ訪れるような親戚がいなかったのかもしれない。

しかし祖母のアルバムから、1960年に広島を訪れた写真が出てきた。正しくは、家にあった古いネガに祖母が広島を訪ねた写真が写っていたのだ。スキャンしてわかった。祖母は広島に行っていたのである。
なお、この写真を撮影したのは祖母の三男の叔父である。

一枚目の写真は寺の前にいる祖母と甥夫婦だ。

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この場所はどこだろう。階段下に光西寺と書かれたゴミ箱があるから、広島の光西寺を調べてみた。すぐに分かった。広島市西区己斐にあった。
己斐(こい)は祖母の口から何度か聞いたことがある。祖母の戸籍は今の中区小町という都心部で今はビルばかりで住宅などないだろう。己斐は親戚が住んでいたのだろうか。

そこで9月23日の朝、己斐の光西寺まで行ってきた。浄土真宗本願寺派 法輝山 光西寺。車が入れないほどの狭い路地の高台にある寺だった。

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さすがに寺の風情は変わっていなかった。境内も狭い寺だが、本堂の欄間は立派だった。

この写真と連続して、墓石の前の祖母と、それを拝んでいる写真も出てきた。

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当然、光西寺の墓地だと思ったが、それらしきものがない。
そこで近所の人と、寺の奥さんに聞いてみたら、この寺ではないと言う。そもそも、光西寺は狭くて墓がない。
ではこの墓石はどこにあって誰が眠るのだろう。光西寺の脇に墓石があったのでここかと思ったが、塔がない。

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碑文も違い、お寺の奥さんも観たことがないと言う。これまで祖母の親の墓と思ったので旧姓を言ってみたが、知らないと言う。結局、この墓はどこにあって誰の墓だか、わからずじまいだった。
帰宅して母に聞いたら、祖母はよく「己斐の墓」と言っていたらしい。光西寺のすぐそばに蓮照寺があるが、ここにもこの墓石はない。祖母の己斐の墓はどこにあったのだろう。
57年の月日は遠い。

次に市街地に戻り、喫茶リラの前で大勢で写っている写真の場所を特定したい。おそらくはわざわざ東京から祖母が出てきたので、親戚一同が食事かなにかに誘った前後ではないか。

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喫茶リラを検索すると、老舗の喫茶店と軽食ができるレストランだったようだが、すでにつぶれているらしい。
◎広島市内で昭和50(1975)年くらいまでは営業していたレストラン
◎場所は今の広電「広島トランヴェールビル」の南側あたり、つまり広島銀行本店の北あたり

写真の左の扉の文字を類推すると広島電鉄観光課 日本交通公社と読めるから、今のJTBが入っているビルだったのだろう。

トランヴェールビルは一等地に建ち、もみじ銀行などが入っている。すでにJTBはない。

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祖母の写真をよく見ると、後ろは路地で自転車が走っている。もしかしてその路地は隣の日興ビルとの間ではないか。

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今はこの路地はふさがれているが、当時は文字通りの路地で、日興ビルのプレートあたりが喫茶リラの入口ではなかっただろうか。つまり日興ビルの角に祖母たちは立ち、写真に写ったのだ。

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と書いたら、なおひこさんから、トランヴェールビルの南西の、鯉城通りにある広島銀行との路地ではないかとコメントをいただいた。ググストで見ると確かに一方通行があり、今は地下道につながる階段がある場所が写真の撮影場所ではないか。この一方通行は駐車場を探すためにクルマで走らせたがノーマークだった。
リラはここにあったのだということにした。

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最後の写真。商店街を祖母と親戚のおばさんらしき人が歩いている。
祖母の脇に「しんや」という看板がある。

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「広島 しんや」これもすぐにヒットした。しんやは金座街に今もある、子供服の老舗だった。
さきほどのトランヴェールビルから歩いてすぐだ。

まだ朝早いので店員さんが掃除をしていたので写真を見せて聞いてみた。金座街は祖母の写真の翌年、1961年にアーケードになったらしい。

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この写真で疑問は、奥の右に富士銀行(今のみずほ銀行)があるけれど、この場所は福屋百貨店なのだ。みずほ銀行は通りの向こう側にあり、当時の銀行はそうやすやすと移転しないと思う。
と書いたら、わたやんさんからコメントをいただき、昭和30年当時の地図だと、富士銀行は福屋の場所にあった由。つまりしんやは引っ越しておらず、アーケード(屋根)ができる前のこの道を祖母は歩いていたのだった。

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店員さんは店が移ったのかもしれないがそのころのことがわかる人はいない、孫の代になっていると言った。すると孫らしき男性が来たので聞いてみたら、何言ってんだみたいな憮然とした態度になり、まったく当時のことはわからないと言われ、おそらく生まれてなかったのだろうが、急な話で申し訳なかった。「お父さんかお母さんは来ますか」と聞くと、「午後からなら」とのことで、そこまで待てないのであきらめた。
57年の歳月は街も人もすべて変えてしまったのだ。

ところでこれらの写真のネガはカビだらけでひどく傷んでいた。



そこでスキャンしてフォトショップで補正したのが上の写真だ。
ずっと前から、妄想に妄想を繰り返して、この写真の場所に行くのを楽しみにしていた。
でも、そんな趣味嗜好は私くらいのものらしい。そうなんだ。
過去を振り返ってばかりの人生なのである。

| 日記・つぶやき | 21:50 | comments(5) | - |


両国のランチ:ひさご 天ぷら
仕事の都合で-両国-江戸NORENに行かなくてはならなくなり、行ってきた。ついでにランチをしてきた。

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「粋な江戸の食文化を楽しむ。」をコンセプトに12の和食店が両国駅に集結。
歴史ある両国駅の旧駅舎に、江戸の町屋を意識した吹抜け空間が広がります。和食の魅力に触れ、江戸の食文化や伝統をお楽しみ下さい。
とあるように、JRが遊休施設を活用した飲食街である。

特徴的なのは国技館のおひざ元のため、本物の土俵があることだろう。これがランドマークである。

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入口には墨田区の観光案内所があり、東京スカイツリーとすみだ北斎美術館のある、さすがに墨田区と言う立てつけだ。
土俵を囲むように江戸情緒のある飲食店が並び、そのうちの天ぷら食堂ひさごがリーズナブルな価格だったので入った。全般的に金額は高く、サラリーマンのランチは狙っていない。観光客や相撲観戦客が相手だ。外国人も多く訪れている。

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カウンターとテーブル席でカウンターに座る。

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卓上にはしおからとハリハリ漬けがご自由にお召し上がりください状態で置いてある。

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天ぷら定食1100円。

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当然ながら天ぷらは揚げたてでアツアツ。

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品数も、海老が2尾のほか、珍しいところでは茹で卵の天ぷらがあり、豊富だ。

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たまごの天ぷらは食べるのが初めてだった。茹で卵を揚げている。塩と醤油で食べてみた。

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ごはんの量を聞かれたので「フツー」にしてもらったが、ごはんが足りなくなってお代わりをしたら100円取られた。
やはりサラリーマンは相手ではなく、おばさまたちやガイドさんに連れられた白人がいたので、そういうのが相手と、明快だった。
| グルメ | 20:24 | comments(0) | - |


下北沢のランチ:かつ良 とんかつ
小田急電鉄が発行している沿線のタウン情報フリーペーパー「ODAKYU VOICE」に「地元で愛されるとんかつの名店7選」があり、どれもおいしそうなのでそのうちの下北沢のかつ良に行ってみた。

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下北沢駅から歩いて数分の、通りに面した地下にあった。

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ランチタイムをやや過ぎていたので、店内はゆったりしていた。

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メニューは大きく、立てられる。

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ひれかつ定食2170円を頼む。1000円程度のランチメニューもあるが、滅多に来ないので奮発した。

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しばらくすると漬物セットを持ってきてくれた。ご自由にいただけるらしい。昔はこれだけでごはん1杯を食べる元気があったが、ほどほどにしておく。

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見事なひれかつである。

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ごはんは白米と紫蘇ごはんが選べるので、珍しいから紫蘇ごはんにしてみた。

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味噌汁は赤だしだ。

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切られているひれかつの断面を見たら、ほのかにピンク色だが火はちゃんと通っていた。

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大きな壺からソースをかける。

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キャベツにはドレッシングをかける。

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しばし見とれていたが、実に美味しいひれかつだ。これは自慢の味と言って間違いない。
ランチなので1080円のを頼んで、目黒の名店かつ壱と比べてみてもよかったか。

お代わりのごはんは白米にした。

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柔らかく、香りがあり、幸せな気分にしてくれるとんかつだった。
| グルメ | 20:11 | comments(0) | - |


瀬戸大橋、大鳴門橋、明石海峡大橋を通って四国経由で帰京
どうやって帰ろうかと迷ったが、まっすぐ帰らず瀬戸大橋、大鳴門橋、明石海峡大橋を通って帰ることにした。つまり、四国や淡路島を経由して帰るのだ。

倉敷ICから倉敷ジャンクションを右に折れて、まずは瀬戸大橋。JRでは何度かわたっているが、車では初めて。

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与島SAで降りてみる。橋は大きくJRが時折走る。

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5月の連休に四国88カ所札所めぐり、つまりお遍路さんをして結願したので、もう二度と四国に来ることはないのではと思ったが、早くも来てしまった。そういうことはよくある。津田の松原SAと、鳴門西PAでうどんのランチで休憩したが、鳴門西は椅子もない、トイレと自販機だけのとんでもない施設。アメリカには多いのだが、仕事のメールを打つので椅子くらい欲しかった。やむなく、棚にノートパソコンを置いて、スマホテザリングでアクセスした。

徳島県鳴門市の大鳴門橋は、お遍路が一段落したあと、よく上の歩道橋から眺めていた。



下から観潮船から大鳴門橋を眺めたこともある。



渦潮を眺める人間用の通路も歩いたことがあるが、車で走るのは二度目。一度目は高速バスだった。

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淡路ハイウェイオアシスはなかなかよくて、名産品の玉ねぎなどを物色。
そして明石海峡大橋の展望台があり、すごい迫力だった。

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明石海峡大橋は長いスパンで人工物からの雄大な眺めに感動した。

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そして神戸。

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この辺りは阪神高速や神明道路、第二神明道路が入り乱れており、カーナビの言うがままにしたが、ETCの料金計算が分断された。

新名神高速で夜になり、御在所SAで休憩した時はすでに真っ暗。

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刈谷ハイウェイオアシスで夕食の親子丼を食べる。

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浜松SA駿河湾沼津SAで休憩をして安全第一で帰途に就く。

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帰宅した時は0時を回っていた。
四国経由を選んだ時点でそれはわかっていたのだが、さすがに疲れた。

マイカーで祖父の郷里まで走る念願の夢は実現した。高速道路や橋の恩恵に授かった。しかし、旅に出るたびに疲労が増加する。もう旅はできない。そう思いつつも、また次のことを考えてしまう自分がいる。

残念なのはもう一つあり、GPSロガーで走行軌跡を取得していたが最終日しか記録されていなかった。安芸灘とびしま海道を走った軌跡を見たかったのに、もう一度行くわけにもいかず、どうしてだろう。



GPSも半分壊れているようだ。
| 旅行・鉄道 | 22:24 | comments(0) | - |


朝の倉敷美観地区を散策
倉敷アイビースクエアは、それこそ学生時代から有名なあこがれの宿だった。
施設全体としては雰囲気があって悪くないが、とても広い施設のため、宿泊棟と駐車場が道路を隔てて離れていたり、朝食がどれもしょっぱすぎて塩分取りすぎだった。次回、倉敷に来ても泊まるかどうか。

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朝から倉敷美観地区に行く。1971年の、高校の修学旅行以来だ。



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月曜日の朝のため、人通りはそれほどではない。もちろん、外国人を含めた観光客はいるのだが。
塔のある建物は元郵便局の観光案内所だ。

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なまこ壁の倉庫。

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大原美術館は月曜日で休館だった。仕方ない。

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いい具合に蔦が絡まっている。

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喫茶店、エルグレコ。これも学生時代の憧れだった。おそらく永六輔の「遠くへ行きたい」で一躍有名になったはずだ。

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川下りも風情があるが、乗る気はまったくない。そのかわり写真を撮る気はマンマンで、いい位置に船が来るのをじっと待つ。

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岡山名物きびだんごの老舗廣榮堂がハラール認証を受けていた。

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これは買わなければならない。

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撮影隊が来ていた。朝ドラ「ごちそうさん」のロケ地にもなっており、撮影は日常茶飯事とのこと。

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花をアクセントに写真を撮ったり、

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青空と花とのコントラストを活かしてみたり。

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アイスの店が10時に開くので開店を待って入る。

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案の定、インスタ女子があれこれアングルを考えながら写真を撮っていた。

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これにて中国地方の旅はおしまい。これから帰るのだが、まっすぐ帰るのか、どうしようか。
| 旅行・鉄道 | 22:05 | comments(0) | - |


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