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朝鮮滿洲旅行案内<1> 昭和11年(1936年)発行
20年ほど前、祖母の実家から「朝鮮満洲旅行案内」という冊子をいただいた。大伯母が亡くなって遺品を整理していたついでに出てきた古いガイドブックを、私が旅行が好きと知って渡されたのだ。

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細長い、最近の登山地図によくある大きさの本だ。中綴じで二つ折りになっている。
昭和11年4月10日に三省堂旅行案内部が編纂・発行した本で、手許の本は昭和12年4月25日20版発行だ。
内地(日本本土)から、海を渡って当時は日本だった今の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国である朝鮮と、日本と深い関係にあった、今の中国の東北部の国である滿洲への観光旅行をいざなう本で、旅行の心得、さまざまなアクセス方法、朝鮮と滿洲各地の観光案内がなされている充実した内容だ。

昭和12年に支那事変になり、そして世界大戦となるのだから、ギリギリ"よかった"時代の産物だろう。「出征」や「開拓」でなく「観光」なのだ。昭和11年は1936年、レイルウェイ・ライター種村直樹氏が生まれた年でもある。

旧字体の小さい字で印刷や紙も粗悪だが、それを無視して読むと脳内タイムトリップができるとても面白い本だ。この本をどうしようか、かなり迷ったのだが、今回、スキャニング→PDF→OCR→手打ち修正でテキスト化して何回かに分けてその一部を紹介します。粗悪な旧字体の印刷物からの作業のため、誤判読もあると思いますので、ご指摘いただければ幸い。
緑字が元の書籍、黒は私がいれたチャチャです。



鮮滿旅行についての注意
◆どんな旅行でも、出発に先立ってまづ精細なる旅行の計畫をつくる必要のあることは勿論であるが、殊に鮮滿への旅行をなす場合には、内地の旅行とは多少事情を異にするから、充分に各種の参考資料によってその土地の状況を研究して、萬遺漏なき旅行計畫を立てることが最も肝要である。次にそれらの旅行上必要なる注意を列挙する。


事前の情報収集や計画が重要なのは今も昔も変わりない。今はインターネットで世界各国の最新情報が入るので文字通り隔世の感である。しかし当時は人から人への口伝も多かったから、そちらの情報密度のほうが濃いと思う。

一、旅行季節
<春>四月中旬から五月下旬の花期、六月の新緑の候を最も良しとする。
<夏>七月下旬から八月中旬はいはゆる雨季であるが、大陸気候の影響を受け、雨量が少く、野も山も緑滴り、朝夕は涼風吹き来って極めて凌ぎ易い。
<秋>九・十月は紅葉の季節で、春にも優る旅行の好季節である。
<冬>滿洲の冬は三寒四温といつて、寒さが三日續けば、次に暖い日が四回續くといふやうに自然に気候が緩和されてゐる。この時期は滿洲の最も活気のある時期で、農作物の出廻りが盛んで、またスケート・狩猟等の好季節である。


要するに、どの季節も「よい」ということで、これは素晴らしい提案だ。旅行には四季それぞれの楽しみがあるのだ。冬の朝鮮・滿洲はとても寒いと思うが、「農作物の出回りが盛ん」と、本当かどうか、行ったことがないので知らないけれども、そうなんだと思う。狩猟を勧めるのも時代性を感じる。

一、通貨
朝鮮・滿洲等日本の經営する鐵道沿線には日本貨幣及日本銀行・朝鮮銀行の兌換券が流通して居るから旅行上些の不便はないが、滿洲國・中國・蘇國の鐵道沿線に至ると、言語の不通や土地の不案内と共に、通貨の関係が煩瑣になって来る。元来滿洲・中國は銀本位國であるため世界中で一番通貨の複雑な國と云はれて居る通り、各地方により全然流通貨を異にして居る所がある。
但し滿洲國は中國当時の舊態(旧態)を改め、幣制確立し滿洲中央銀行の貨幣並に紙幣が全國到る所通用することになったが、舊来(旧来)の貨幣も当分の間流通する。
各地方の流通貨を左に掲げるが、滿洲圏内に於ける日本貨幣は其日の銀相場に換算することとなる。

◎朝鮮各地 日本銀行發行貨幣及朝鮮銀行発行貨幣(朝鮮銀行發行紙幣は内地歸還の際、船内又は乗下船港の銀行で両替を要する)。
◎滿鐵沿線 朝鮮と同様である。なほ其の外に横濱正金銀行発行の圓銀貨及紙幣が通用してゐる。
◎奉天・錦縣・洮南地方 日本貨幣及滿洲中央銀行貨幣の外に商店の買物等には舊(旧)奉天省發行の貨幣、俗に言ふ奉天票が當分(当分)通用する。

◎吉林・敦化・間島地方 日本貨幣及滿洲中央銀行貨幣の外に舊(旧)吉林省発行の貨幣、俗に言ふ吉林官帖が當分(当分)通用する。

◎廣軌線沿線 蘇國貨幣(金ルーブル)・日本貨幣・滿洲中央銀行貸幣の外に舊貨幣の哈爾濱大洋(ハルピンたいよう=銀行名)が當分通用する。


蘇国はソビエトのことだ。ソビエトはさすがに旅券が要った。
という字は旧の旧字体で舊態=旧態である。ほかにも散見される字なので覚えてください。
滿鐵は南滿洲鉄道のことで、滿洲南部で鉄道事業を営んでいた半官半民の特殊会社。鉄道事業以外にも炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった。満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つであった。

当時の中国が通貨が複雑とはこの本で知った。要するに朝滿旅行はユーロ導入前のヨーロッパ旅行のようなもので、国境を越えると言葉もお金も異なった時代をイメージすればよいのだろう。若い人にはイメージしにくいと思うが。

続く

  

| 読書 | 18:42 | comments(0) | - |


ニコンF3/F601 フィルム一眼レフカメラに電池を入れる
昨日、フィルムカメラの日付機能についてネタにしたついでに、フィルムカメラの一眼レフ、ニコンF3ニコンF601を久しぶりに押入れから取り出して、電池を入れてみた。もう電池はすでにヘタっていたので、新しい電池を買って、入れて動かしてみた。
見事に動作した。

ニコンF3は父の遺品である。名機として有名で20年以上も生産されていた。2014年10月にオーバーホールをして、そのときニコンサービスセンターから「もう次は部品がなくてオーバーホールもできません」と言われている。

ニコンF3は絞り優先の自動露出になっており、その制御のためLR44電池を2個使っている。本体の底面から電池を入れる。かなり長い間電池は持ち、普通の撮影で1年は大丈夫だ。
背面は日付が写しこめるデータパックに交換してある。

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データパックもLR44電池を2個使う。カメラ本体と同じく、ネジはコインで開くようになっている。ところがデータパックのネジは何十回まわしても外れず、結局、わずかに出来た隙間にマイナスドライバーを差し込んだ。すると、ポロリと電池のふたが外れた。ネジはふたに付いたままになっていた。

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電池を交換したら、液晶が反応した。最初は82になっている。1982年のことだ。もしかして19(2019年)はないかもしれないと思ったが、ちゃんとあった。

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フィルムは装てんしないで、巻上げレバーをまわして、ピントを手動で合わせてシャッターを切る。絞りはF8やF5.6にすると、それにあわせてシャッタースピードが変わり、露出が合う。

しかしピント合わせは面倒だし、老眼のためよく見えないし、フィルム巻上げも面倒だし、フィルムも高いし現像代やプリント代もかかるので、やはりこのカメラを使うことはないかもしれない。

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次いで、ニコンF601だ。子どもたちが小さいころからデジカメに移行するまで使った。こちらはオートフォーカス、絞り優先もシャッター優先も可能で、しかもフィルム巻き上げも自動だ。

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電池はCR-P2電池を使う。かなり大きなものだ。これも普通の撮影で電池は1年くらい持つ。

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こちらも背面は日付が写しこめるデータパックに変えているが、なんとまだ液晶が動作しており、つまりデータパックの電池が持っており、ちゃんと日付が表示されている。

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ピントは自動だし、シャッターは切れたし、まだまだ使えるのだが、フィルム巻上げ音がものすごく大きく感じた。これは劇場のような場所では使えない。鉄道車内でもかなり響くのではないか。こんなに音がするとは当時は思っていなかった。コレしかなかったからだろう。

カメラのデータパックのおかげで、子どもたちが小さいころの写真に日付が入っている。旅行の写真やクイズ仲間との宴会も日付が入っている。



しかしデジタルカメラは日付のプリントへの映しこみのあり/なしが選べるし、位置情報や顔認識、画像の加工も簡単で、何百枚撮影しても原則無料だ。
やはりいまどきフィルムカメラを使う必然性はないのではないか。

フィルムのほうがきれいとか、凝った写真が撮れるとか、人それぞれの価値観はあるだろうが、私はそれらを感じないのだ。
フィルムカメラを使う理由<価格コム>

| 写真 | 19:03 | comments(0) | - |


フィルムカメラの日付プリント機能
昔の写真をスキャンしている。そうすると写真が(あるいは文書であっても)ものすごく扱いやすくなる。
自分で撮影したものは基本的にネガから、人からいただいた写真はネガは手許にないのでプリントをスキャンしている。
80年代から日付が入ったプリントがあるようになって、写真の整理にたいへん役に立つ。やはり「いつ」「どこで」「だれと」撮影したのかわかるとよい。デジカメはそれらすべてがわかるのですごいと思う(日付時間、位置情報と顔認識)。「なにをしているか」「なぜなのか」は、写真を見ればたいてい推察できる。

日付のプリントは何種類かあるのに気づいた。
まずは1987年7月3日の写真。クイズ仲間と鬼怒川に行ったときのもので、写真は落合義和君からもらった。

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日付部分を拡大すると、きっちりと印字されたような書体だ。

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落合君のカメラなのでなんともいえないが、かつて父が使っていた、日付機能の付いている最初に発売されたフジカオート7デートは手動で日付を合わせていた。文字盤があって、それがフィルムに焼き付けて印字されるのだろう。
三つのボタンがあって、年/月/日を設定した。

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しかし日付をそのつど合わせるのは無理。必ず忘れてとんでもない日付が印字されることになった。

続いて、出るべくして出た、デジタルで自動的に日付が更新されて印字できるカメラ。

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今は亡き鎌田有希子と銚子電鉄外川駅前でじゃれあっている写真だが、電卓のような数字が印字されている。1994年4月15日だ。

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このタイプはいちいち日付を合わせないでも数分しか違わない。ところが、デジカメ時代になってマレーシアで吉田宏明さんに撮影してもらった写真はものすごく時間がずれていて、時差にしてもおかしいと思ったら、20分ずれていた。吉田さんが時間合わせをしていないからだった。

そしてハワイで撮影した貴重な鉄道写真。ネガをスキャンした写真に日付は印字されていないが、

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たまたまプリントをスキャンした写真もあって、こちらには黒いデジタル数字で印字されている。1997年5月26日。

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これはAPSカメラ キヤノンIXYで撮影して、プリントのときに日付も印字してもらったのだ。
どうでもいいハワイ出張で駐在員と遊んだ。

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APSアドバンスドフォトシステムといって、フィルムやカメラのみならず現像やプリントを含めた写真のシステムを変えるものだった。

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左が通常の35mmフィルム、右がAPSフィルム。小型でフィルムはカメラに自動装てん、今のデジカメのExif情報のような領域があり、日付、時間、コメントなどを記録できた。APSに対応しているフィルムスキャン業者にスキャニングを依頼したが、日付はスキャンできなかったのだ。
今、APSフィルムをスキャンやプリントできる業者はあるだろうか。現像済みフィルムもカートリッジに入って納品されるので、どんな写真が写っているか確認できない。早い段階で全部をスキャンしてよかったと思う。

APSはほどなく登場したデジタルカメラに駆逐された。

今のデジカメ写真をプリントするとき、日付のあり/なしを選べるようになっている。スマホアプリには昔のフィルムカメラのようなレトロな写真を撮れるものがあって、日付をあらかじめ入れて撮るモードもある。Exif情報は写真を加工すると消えてしまうから、デジカメ写真の大元データは大事に残しておかなければならない。
| 写真 | 18:20 | comments(0) | - |


北海道気まぐれ列車 種村直樹著 を読み返す
このところ、再び種村直樹氏の著作を読み返すようになった。
理由は、どんな本を書いていたのだろうか、あのころ(20年以上前)の鉄道事情はいかばかりだったのかと、思いをはせるようになったから。

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今回手にしたのは「北海道気まぐれ列車(シグナル刊2004年)」だ。
北海道を舞台としたルポを集めた本で、すでに他の単行本に収録されていたものからの抜粋である。

「気まぐれ列車」とは、きちんとした行程を先に決めておかないで、その場の雰囲気であっちへ行ったりこっちに寄ったりする種村氏独特の汽車旅のスタイルを自ら名づけたもので、たぶんに内田百里痢岼に捨鷦屐廚紡亶海靴燭發里任呂覆いと私は思っている。

この本には
まえがきにかえて 北海道気まぐれ駆け足散歩 2004/06

北海道気まぐれ列車前史 1955/710-8/4

北海道気まぐれ列車 1975/06/02-06/10 1976/02/28-03/09

道北気まぐれ列車 1982/03/08-03/12

北の地を駆けぬける 1984/07/06

北海道ローカル線紀行 1994/01/23-01/27


の6編が収められている。
※以下の写真は私の北海道旅行の写真です。

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「前史」は浪人して大学に入った年の夏休みに中学時代からの友人、横田氏と北海道を巡った"思い出"を鮮明に書き記している。鉄道そのもののウェイトは大きくないが、昔の旅は人との出会いがかくも濃厚にあったのかと思い知らされる。

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何度も作品に登場した"芦別夫人"。車中で知り合ったご婦人の家に泊まらせてもらったものの、帰宅後もお礼のはがきを出さなかったため心配され、「内地ではどんな風習か存じませんが、北海道では旅先で世話になった人には礼状を書くのが礼儀でございます」と逆に手紙が来て恐縮した件。
一ノ関の高校の先生、浦川さんの「汽車の中にはさまざなま人が乗り合わせている。いつも自分たちの仲間だけで話していては発展がないから、つとめて多くの人に接触することだ。ことに年寄りは、誰かと話したいと思っている場合が多いけれど、若い人にうるさがられると困るから遠慮して黙っている。生活の智恵を身につけた老人から有益な話をうまく引き出すのが君たちの務めだ」。
結婚後、浦川先生を奥さんと訪ねたがこのときのことはあまりよく覚えていなかったそうだ。

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「北海道気まぐれ列車」の2編はフリーになってまもないころの作品で、"一番弟子"の辻聡氏と、おもにローカル線を訪れた物語である。国鉄全線完乗の息吹もこのころ芽吹いたと思うが、この2編はルポとしては周辺の描写にあまり力を入れておらず、同行者の様子がメインになっている。これも種村氏の著作に見られるタイプで、旅のスタイルといい作品の構成といい、このころに基本ができたのではないかと思える。

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「道北」は若い読者と、廃線が噂されるローカル線を巡った旅、「北の地を駆けぬける」は札幌から根室まで特急でいっきに駆けぬけた、氏としては珍しく一直線の旅であった。

「ローカル線紀行」はすでに廃線も多くなってしまった道内を、編集者とともに名残惜しむように巡った作品で、コンセプトが違うのか、情景も多く描写されている。

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こうして振り返ると、20世紀末の汽車旅は、仮乗降場だの客車列車だのがまだ残り、いかに楽しかったかといまさらながらに思う。逆に、今では多くの魅力ある路線が廃止された。北海道では夕張支線がまもなく廃止されるし、札沼線も廃止が決まり、被災した路線の復旧はまったくされず、日高本線も鵡川駅から先の廃止はまぬかれようもなく、いや、JR北海道自体が社長が二代続けて自殺をして存続の危機である。

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この窮状を種村直樹氏が知れば、苦言を呈したり激怒するどころではないと思う。いや、今の鉄道旅行のシステムそのものに、もはやついていけないのではないか。
指定券の予約もみどりの窓口が減ってきて、ジパング倶楽部であっても多機能券売機での自力での購入を促される。東海道新幹線に乗るのもスマートEXになり、ケータイしか持っていなかった種村氏はそのためにスマホを買うのだろうか。

編集者は簡易書留で届く読みにくい手書き原稿を敬遠し「お弟子さんかご家族にパソコンで打ってもらってメールで送ってくれませんか」と頼むのだろう。

そういえば、私はかなり早い段階からパソコン(ワープロ)で原稿を書くのを勧めたが一笑に付すというよりもかすかな怒りを得たようだった。
せっかく周囲に若い者が多くいたのだから、浦川先生の話とは逆に、若い者の言葉にも耳を傾けていればよかったのにな。
パソコン、メール、スマホ、スキャナー、ビデオ、新聞記事検索。
みんな無縁だった。いや、スマホはまだなかったか。

  
| 読書 | 18:41 | comments(0) | - |


1988年2月 マレー半島縦断鉄道の旅<2> バターワース〜シンガポール
イナバの物置から出てきた写真でたどる、31年前の小田急トラベルサービスマレー半島縦断鉄道の旅、第2弾、後編。
仲間内の会報誌に投稿した駄文を加筆修正してお目にかけます。

●バターワース〜クアラルンプール
 バターワースからは狹賤里凌深"と呼ばれるリゾート地ペナン島に渡り、ここのホテルで泳いだり海岸でパラセーリングをしたりして、しばし南洋の休日を楽しんだ。
 翌日も海岸に行ったら、昨日のパラセーリング屋が顔を覚えていたらしく遠くから手を振った。ものすごく遠くだ。しかし現地の人の視力は2.5くらいあるのが普通ではなかったか。

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 2月10日夜、再びバターワースに戻り、寝台特急<セラダンマナム号>でマレーシアの首都クアラルンプールに向かう。今度は個室一等寝台で、形式は日本の2人用A寝台個室である。個室内には洗面器も完備、なかなか快適だ。よその個室を訪ねたりしていたが、翌朝は6時40分着と早いので早々に切り上げた。

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 翌11日の朝6時30分着と、10分も早着してクアラルンプール駅に着いた。まだ薄暗い市内をバスでホテルに向かう。
 マレーシアの首都クアラルンプールは、緑が多くたいへん綺麗で、高層ビルが並ぶ近代的な都市。東京のコンクリートスラムが恥ずかしくなる。東南アジアの印象を払拭させてくれる素晴らしい景観で、少なからずカルチャーショックだ。もちろん、少し街を出ればトタン屋根の貧しい家になるのだが、少なくとも街中の住宅は「豪邸」だ。ホテルのプールで陽を浴びていると、日本に帰るのがいやになった。

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●クアラルンプール〜シンガポール
 市内ではバアサマたちの買い物旋風に付き合わされ辟易したが、いよいよマレ一半島最後の区間に乗る日が来た。13日早朝、まだ薄暗いクアラルンプール駅に再び行く。よく見ると王宮風の美しい駅である。昼行の国際特急<シナランバギ号>はすでに入線しており、みな、思い思いに写真を撮る。われわれの乗る一等車は前部がサロンになっており、通常の座席も1-2の横3人掛で快適だ。

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 7時30分発の列車は、左手に日の出を見ながらひたすら南下する。いままでのバンコク〜クアラルンプールは夜行で、景色を見る楽しみはなかったが、この車窓からは白く細く伸びたゴムの木と、やけに葉っぱが多くて大きい椰子もどきが交互に見え、単調ではあるがそれなりに楽しい。食堂車はタイのとは比べものにならないくらい綺麗で、こちらの制服はブルー。昼食におにぎり弁当を持ち込んでいたので食事は遠慮したが、紅茶を注文した。甘かった。シンガポールとの国境の駅「ジョホールバル」着。車内に女性も交えた出国管理官が乗ってきて、パスポートに軽くサインをし、手続きは完了。そしてジョホール水道を鉄橋で越え終着シンガポール駅へ。ホームでタイ・マレーシア両国の国鉄総裁の乗車証明をもらい、子供のように喜び合った。

●シンガポール地下鉄
 私たちはシンガポールの半日市内観光には行かず、勝手に路線バスに乗ったり、昨年12月に開通したばかりの、世界一新しい地下鉄に乗って遊んだ。こちらは地下鉄はサブウェイでは通じず、MRT (Mass Rapid Transit) と言わなくてはならなかった。サブウェイは地下道と理解されてしまう。

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 東京では銀座に相当する繁華街にあるオーチャード駅の、モダンなデザインの入口からエスカレーターで地下に降りる。主要駅にはショッピングアーケードまでつくられている。まだ南北に一本伸びているだけだが、この春には東西にも伸びて、たいへん便利になるはずだ。

 自動販売機にコインを入れ、料金のボタンを押すと、即座にオレカ大のプラスティック製のきっぷが出てきた。料金は50セント(約33円) から1ドル10セントまで。きっぷは薄いグリーンで「シングルトリップ」とあり、料金は明示されていない。裏面には2本の磁気ストライプがあり、これに購入駅や料金のデータが入っていて、集札したら磁気データを入れ換えて、何度も使うのだろう。オレンジカードのような10ドル分使えるきっぷもあり、このきっぷの色はブルーだった。このように乗り方の仕掛を考えながら、未知の土地を行くのはとてもおもしろく、レールファン冥利につきるのだ。
 自動改札機にきっぷを入れ、さらにホームへと降りる。大理石で作った階段もあって、豪華で美しい。日本のような「ただ人を運ぶもの」という機械的な感じをまったく受けない。ホームには転落防止のガラスの壁が延々とあって、電車のドア部分と揃えてドアがある。電車が止まってドアが開くとホームのドアも開く、ボートライナ一方式だ。

 車内の椅子はプラスティック製で、車両によってオレンジ・グリーン・ブルーなどに色分けされている。シルバーシートは各車両の前部に 用意されているが、特に老人は乗っていなかった。ドアロの横には禁煙マークが貼ってあり、その横には飲食禁止を示すマークも貼ってあった。中国系の人は食べ物を散らかすからなのだろうか。
 とりあえず北の終点まで乗ると、途中から地上を走る高架線となって、高島平のような団地に着いた。自動集札機にきっぷを入れると、10セントほど多めに買っていたのだがきっぷは戻らなかった。
 スコールにまみれながら駅前をうろつくが、郊外もとても美しい。クアラルンプールといい、本当に美しい都市だ。引き返して南の終点まで行って、ホテルへ戻った。

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 夜、みんなで会食したさい地下鉄の話をしたら、ことのほか興味を示し、「乗りたい、連れてって」となった。それではと、まず屋台街で有名なニュートン・サーカスへ団体バスで行ってちょっと見学。ここからホテルまで「にわかガイド」として、地下鉄を案内することにした。平見嬢を含め約10人の有志を引き連れ.小雨の中を最寄りのニュートン駅へ行き、地下鉄のサイン看板を前に、まず現在の路線網を講釈する。
 「エスカレーターのスピードが日本より早いのでお気をつけ下さい」と気を配り地下へ引率。自動券売機ではきっぷがなかなか出てこない人がいたり、自動改札をワイワイ言いながら通過して、さらにホームに降りると大理石造りの豪華な階段にオバサマたちは大感激。この前で記念写真を撮るほどだった。

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 ホテル最寄りのオーチヤード駅までわずか1駅ではあったが、単なるバスの移動にはない旅の楽しさを味わっていただいたつもりだ。このときばかりは添乗の平見嬢も神妙に着いてきたものである。
<了>

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この文章はレイルウェイ・ライター種村直樹氏の影響や行動を多分に受けている。上から目線で今読み返すと不愉快に感じるかもしれないが、それでも同行のオバサマたちには喜ばれていたと思う。楽しい旅であったなら、うれしい(これも上から目線)。

ところで、この旅で私は2つの失敗をした。
1つは寝台車のもの入れに腕時計を置き忘れたのだ。カシオのワールドウォッチという世界中の時間を表示できる機種だった。今ではその後継のカシオプロトレックを使っている。

もう1つは、シンガポールの即日仕上げのDP屋にフィルムを現像・プリントしてもらい、最終日の夜にみんなに写真を配って、驚かれたり喜ばれたりしたのだが、DP屋がいいかげんで、プリントとネガフィルムが違っていた。だれかほかのまったく関係のない人のネガが袋に入っていたのをホテルの部屋で気づいた。後にも先にもこんなことはない。そのため、この旅行のネガはない。だから手許に残ったプリントをスキャナーでデジタル化した。
写真の順番や撮影地も今ひとつ自信がない。

小田急トラベルはこのツアーが好評だったようで何年か続けて催行していた。今はJTBの提携販売店に成り下がっており、こんな面倒なツアーは造成しないだろう。でも楽しめた。ありがとうございました。

  
| 旅行・鉄道 | 20:42 | comments(0) | - |


1988年2月 マレー半島縦断鉄道の旅<1> バンコク〜バターワース
過去ばかり振り返っています。
イナバの物置を整理していたら、一葉の写真が出てきた。

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今から31年前の、1988年2月に、小田急トラベルサービス(現:小田急トラベル)が小田急電鉄開業60周年を記念して、「マレー半島3カ国 鉄道縦断の旅」というパッケージツアー(募集型企画旅行)を販売した。その乗車距離約2000キロ。団体旅行に参加するのは珍しいが、鉄道縦断に惹かれて汽車旅仲間と行って来た。
この年の11月には日韓共同きっぷで韓国にも行っている。

当時仲間内の会報誌に寄稿した文章を、同じくイナバの物置から出てきた会報誌をスキャンしてOCRでテキスト化したものを加筆修正してお目にかけます。
まるで種村直樹氏の文章のようで、かなり影響を受けていたと納得した。

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●バンコク〜バターワース
 1988年2月8日、バンコク市内観光に出かけた。今から思えば暁の寺などにお参りしたのだ。

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王宮にも行ったようで、現地女性ガイドの「王様はお父さんのような人です。尊敬しています」と、当時のプミポン国王のことを語っていたのをいまだに思い出す。本当にそうなんだと思った。

午後,タイの首都バンコクの市内観光を終えたバスは、バンコク・ファランポン駅へ着いた。ツアーの総勢20人。大部分がレールファンだろうとの予想は大きくはずれ、メリーウイドゥ・フルムーン・ハイミスが大勢を占める。一番若いのは添乗員の平見嬢、次が私達である(当時33歳)。事実、最初成田空港で逢ったときは、遺骨収集団と思ったほど平均年令が高い。そして平均身長が低い。それでもたいへん元気な一行で、彼らを見ていると、いろいろな意味での日本の発展を痛感する。「普通の海外旅行は飽きたから」と、この鉄道の旅に参加したよし。

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 ファランポン駅はヨーロッバの終着駅と同じくドンヅマリ。蒲鉾型のドームの下に10線余りの線路が入っている。私としては初めての駅に礼を尽くして、正面入口からコンコースへ、改札を経てホームへと順路を辿りたかったのだが、ガイドさんは駅横の団体入口から慌ただしくホームへと案内した。

※2014年3月に行ったファランポン駅正面。
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 われわれの乗る国際夜行特急列車はとても長い編成だ。最後尾は個室一等寝台車で、次がわれわれの乗る冷房付二等寝台車。次が冷房無しの寝台車、そして座席車と続き、食堂車も連結されている。ホームには屋台のみやげ屋や天秤俸を担いだめし屋、あてもなく座り込んでいる人などが群がっていて、東南アジアのイメージどおりだ。
 車内は、日本の開放型A寝台と同じ形式で、同行者と向かい合って座ることになった。発車もまだなのに、早くも車販がやってきた。ピンクの制限をまとった、JダイナーならぬTダイナーの女の子だ。「アイスコー、ジュー」なかなか愛想がよくかわいい。こちらの人は彼女に限らず販売にたいへん熱心で、「NO」と断っても知ってか知らずかまだ勧める。値段を聞くと10バーツ(約60円) とか。「食堂のメニューには5パーツって書いてあったぜ」と同行者。5バーツは彼女のチップか、それとも出前手数料か、ガンとして値切りには応じなかった。

 列車は定時の15時15分、音もなく発車した。駅を出てすぐ、ホームは切れたのに、線路に 向かつて小さな店が並んでいる。ここでは線路は道路と同じく通路になっているようで、こどもやおばさんが列車の横を歩いている。あっという聞に民家が途切れ、緑あふれる光景になった。小さな駅を一つ過ぎると川が近寄ってきた。その川でこどもたちが泳いでいる。日本ではもう見られない光景で、彼らは彼らなりに幸せに違いない。

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 日が暮れるころ、夕食に持ち込みの幕の内弁当を食べたが、せっかく連絡されている食堂車に行かないわけにはいかない。食堂車はチーク材を使っているのか木目の壁に、赤いテーブルクロスをかけた机が左右に並んでいた。照明は薄暗い。しかも冷房がないため窓が開いており、列車の音がうるさい。その中で、何人もの現地の人が食事をしていた。
 6人掛のテープルに現地君と相席すると、ムッとニンニクの臭いが鼻をついた。テーブルの上のすだれ状のランチョンマットは、料理の汁が染み込んでいるのか黒く変色している。しかも目の前の現地君は臭いプンプンの青菜の炊めものを食べている。周囲ははっきり言って汚い。
 弁当だったので、ビタミンを補給しようとチキンサラダを頼んだら、ドレッシングが砂糖のように甘いのがやってきた。チキンは日本では茄でたものだが、こちらのはロース卜したもので、どうもなじめない。やむなく食べていると添乗の平見嬢が数人のメンパーを連れてやってきた。私達が食堂車へ向かったので、みんなにせがまれたよう。もっとも私が寝台車を離れるとき彼女に「食堂車でお茶でも飲まない?」と誘ったときは「ベッドセットがあるから……」と断ったくせに。

 皆が寝台車に戻ってまもなく、ベッドセットが始まった。人のよさそうなタイ人のおじさんが、上段をひき下ろしてマット・シーツ・枕を敷き、椅子を前にずらして下段を作っていく。日本と同じである。フルムーン組は大抵旦那が上段であるが、岡山の夫婦は小柄な奥さんが上段にされて、転落防止のベルトの間から落ちないかと心配していた。

 翌9日朝、転落事故もなく、朝食のおかゆが出前されるのを待つ。ピンク服のボーイが、おかゆのどんぶりを5枚くらい重ねて、手で抱えて持ってきた。揺れる車内をワゴンやお盆を使わず、歩いてくるのはたいへんなテクがいるようだ。
 卵が一つ落としてある海老入りのおかゆで、ピリッと辛味があって、とても旨かった。前夜のドレッシングは酷かったが、辛いものは旨い。辛い文化はたいへん進んでいるとまったりする。ところが、Tダイナーの女の子が出前した紙パックのミルクはなんと砂糖入りのキモチワルイ味。甘いのと辛いので差がありすぎる味覚文化であった。

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 7時すぎに着いたハジャイ駅では、食堂車を含む車両の切り離しが行われる。普通切り落としは後部の車両を落とす。ところがここでは中落ちで、後部を残して前部を落とすのだ。機関車ごと換えているのか、機関車はそのままかわからなかったが、国が違えば流儀も違うのだ。
 軽くなった汽車は1時間余りでタイ〜マレーシア国境のパダンベサール駅に着いた。昨夜添乗員を介してタイの出国係官に渡しであるパスポートを、ホームなかばにあるマレーシアの入国管理窓口を通して返してもらう手はずになっている。檻のような窓口には、現地の人や白人がすでに群がっていた。
 名前を呼ばれるのだが外国人がローマ字の日本人名を読み上げるのでなんとも聞きづらい。バアサマたちは必死である。名前が呼ばれようものなら「ハイハイハイ」と人を掻き分け前に出る。なんとかマレーシアへの入国手続きも済み、列車は終点バターワース駅へと向かった。

続く

  
| 旅行・鉄道 | 19:42 | comments(0) | - |


1963年 父の伊勢志摩旅行 この建物は何?
父の古い写真から旅行先の推理をする第三弾。
1963年撮影らしいが、色あせたカラーフィルムがある。

二見が浦の夫婦岩の前に父が立っている。

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いつもは撮影役なのだが、この伊勢志摩旅行は珍しく父が多く写っており、同僚と変わりばんこに撮影しているようだ。職場旅行のような大勢で写っている写真はなく、どうやら4人の旅行なので出張のようである。

1963年という確約はないけれども、昨日、那須への職場旅行を紹介したから、服装からその年の夏のようである。

そして伊勢神宮の内宮の前に立つ写真。
さらにミキモト真珠島の御木本幸吉翁の像の前で。この施設は行ったことがない。
真珠とは無縁だ。

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まぁ、どこでもだれでも撮影するような観光旅行の記念写真である。しかもヘタクソな写真だ。ニコンS2の50mm標準レンズで撮影していると思うが。

海女さんが海にもぐって真珠貝を採る実演。それにしては海が汚い。

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大王崎灯台。ここは学生時代に自転車で走った。
写真はカビが生えているのか、かなり汚れていた。フォトショップで補正しても私の技術はここまでです。

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ところで、気になった写真が2葉ある。写真を数えるのに「(よう)」という数詞を使うことなど、もはやあまりないと思うが、2枚でもなくて2葉。2ファイルと言ったほうが正しいと思うが。

ひとつは旅館の前のおかみさんとの記念写真。

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4人の旅行で一人がカメラマン役だ。
この旅館はどこだろう。

旅館の看板も、目だった特長も写っていない。背景の木造の建物からすると、もはや現存しないだろう。おかみさんも現存しないと思う。現地の古老に聞いて、おかみさんや旅館の名前がわかるかどうか…。
これは探すのをあきらめた。ご存知の方がいれば教えてください。

続いて、当時としては珍しかったと思う、鉄筋コンクリートの建物。伊勢志摩に建っているのだからおそらく旅館ではないか。

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こちらは全体が写っているから建物を特定したい。そこで画像検索や、伊勢志摩のこれはという旅館の写真をかたっぱしから探して見てみた。

志摩観光ホテル ザ・ホテルクラシック

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これではないか。
現在は増築されたのか横に広がっているが、ペントハウスの屋根の形状や窓の形がそっくりだ。

別の位置の写真のアップ。

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よく似ている。
けれどWikipediaによれば「1969年(昭和44年)7月開業、2016年(平成28年)4月改装」とある。東海道新幹線が開業した1964年以降に出来たようだが、父の写真はまだ開業前の様子なのかもしれない。
そして、ここには泊まっていないだろう。今でも恐ろしく高くて、華麗なる一族でないと泊まれない。

その後、父たちは名古屋駅に戻ってきた。駅前広場のようす。

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銛を持った青年像がある。現在は名城公園に移築されており、ここには富士山型の飛翔というモニュメントが建っている。だがリニア工事で撤去される見込みらしい。
ちなみに現在のこの場所は高層ビルだらけである。

最後に名古屋城

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戦災で焼けて戦後復興された建物だ。元の木造で作り直すハナシもあるようだが、あまりいじらないほうがいい。ほかにすることがあるはずだ。

気になるのは、父たちが泊まった旅館と志摩観光ホテルらしき建物だ。
現地で聞き込みをすればわかるものだろうか。

  

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