楽しい楽しい三連休。
ところが昨日の
土曜日は出勤しました。
だまされてお仕事になったのです。
※わしを騙して休みもなく働かせるのはあのお方しかおるまい。
だまされて夜も日もなく働かされたのは
タコ部屋労働者。明治後期から大正期にかけて頻繁に行われ、最終的には昭和20年(1945年)に戦争が終わってからも、一部でしばらく続いた労働形式です。
明治になって富国強兵が叫ばれ、鎖国から一気に世界と対峙しなければならなくなった日本は、国土の開拓に力を注ぎました。特に
北海道は世界最大のロシアの南下に備え、軍備を整える必要がありました。未開の原野に道路や鉄道のインフラを整備し、軍隊を配置しなければなりませんでした。しかし当時は道路を作るにもクレーンやブルドーザーなどの土木・建設機械はありません。大部分を
人力で作業するしかなく、膨大な人手が必要だったのです。
そこで目をつけられたのが
囚人でした。明治以降の内乱(西南の役、戊辰戦争など)で膨大に発生した
賊軍側が囚人となり、彼らを収容する集治監(刑務所)も足りなくなったため、北海道に集治監を建設し、そこに囚人を収容したのです。そして政府は囚人たちを使って北海道開拓を始めました。周囲は熊のいる無人の原生林、逃げようのない天然の流刑地に、ロシアからの侵略を防ぐべく、インフラの道路を囚人を使って建設したのでした。
彼らは二人一組で鎖でつながれ、粗末な服と粗末な食事で大原野を切り開き、道路を作ったのです。安全や労働衛生、人権などは一切無視された原野で、死ねば鎖につながれたまま道路わきに埋められました。そういう彼らは、勝っていれば
官軍だったのです。
↓樺戸集治監(札幌市北部の月形町)
労働中の死者があまりに多かったため政府も問題視し、囚人労働は大正期になると影を潜めました。しかし北海道の開拓はまだまだです。鉄道、橋、灌漑、ダムなど、労働力を必要とする現場は無数にあります。
そこで目をつけられたのが
拘禁労働です。
東京あたりに遊びに出てきた、コレと言って職のない、今で言うフリーターやデジタル日雇い、プチ家出などの若い男でした(女はもちろん別の拘禁労働が待っていた)。
「北海道にはいい仕事があるよ」「牛を見ているだけで1日何円にもなるんだ」「その立派な身体だったらすぐに大金持ちになるよ」
よその土地の情報など入らない時代。彼らを言葉巧みに誘い出だし、列車に乗せて船に乗せて北海道へ向かいます。そのときだけうまい食事を腹いっぱい食べさせてその気にさせます。
そして鉄道の工事現場に。
まず身包みはがされふんどしか腰巻(フルチン)一丁に。寒いのにお構いなし。逃げられないように、逃げてもすぐ見つかるようににと、一目でソレとわかるようにするためです。
まだ星の出ているうちから起こされ、つるはしやモッコを担いで飯場から工事現場までは走って行かされます。そして星が出るまでの
肉体労働。重いモッコや丸太を担いで狭い山道を走らされ、転べば棒頭(ぼうがしら)と呼ばれた現場監督から容赦のない暴行が加えられました。
騙されて連れてこられた男たちは
タコと呼ばれました。他から雇用されたから他雇とか、自分の手足を食べて生き延びるタコになぞらえたなどの説があります。彼らを収容していた粗末な小屋を
タコ部屋と呼んでいました。
タコが逃げようとするなら(周囲は原野で逃げ場はないのですが)見せしめの死のリンチが待っていました。木にくくりつけられ気を失うまで棒で殴られ一晩放置。翌日は虫に刺されて誰と区別がないほど膨れ上がった顔で死んでいました。あるいは戸板の下敷きにさせられ、内蔵が破裂するまで踏みつけられたり。
警察はありましたが見て見ぬフリ。国土開発は国家の至上命題でしたから、逃げるタコなど論外だったのです。
↓タコ部屋労働で作られた常紋トンネル(JR石北本線)
労働者なので給料はでます。ところが毎日必要なわらじや食事代は法外な値段。ほかで入手しようにも周りには何もないので、親方の言うことを聞くしかなく、せっかくの給料はすぐに消えて、ましてや借金でもあろうものなら、いつまでたっても返せない仕組みでした。
一方で雇用側は国から受注した鉄道建設事業をタコの夜も日もない労働により安価で早く成し遂げ、富を築きました。
今、
鉄道マニアが「北海道の絶景車窓」とか、
バイクマニアが「北海道お勧めツーリングロード」などと喜んでいますが、それらの
鉄道、道路、そしてダムや治水工事は囚人、そしてタコ部屋労働者の血と肉の上に成り立っていることを忘れてはいけません。
↓数少ない、タコの慰霊碑(旧国鉄瀬棚線沿線)
だまされた仕事で土曜日に出勤しなければならなくなり、タコ部屋労働者のことを思い出したのでした。
北海道の囚人労働